東電福島第一事故によって埼玉県加須市に避難している福島県双葉町民の姿を追ったドキュメンタリー映画『原発の町を追われて―避難民・双葉町の記録』。制作したのはさいたま市の給食調理員、堀切さとみさん。避難所の騎西高校に1年以上通ってまとめた作品は各地で上映され、新聞やテレビでも取り上げられている。8月19日には渋谷アップリンクで続編も上映。映画に登場する双葉町の住民も登壇し、トークイベントが開催された。(聞き手=編集部・温井)

プロフィール▼堀切さとみ(ほりきり・さとみ)
さいたま市在住。給食調理員。2008 年に市民メディア講座「mediR」で、映画制作を学ぶ。2009 年、上関原発に反対する祝島の住民を記録した「神の舞う島」を制作・発表。2012 年に「原発の町を追われて~避難民・双葉町の記録」、2013 年7 月「続・原発の町を追われて~避難民・双葉町の記録」を発表。公式サイト「原発の町を追われて~避難民・双葉町の記録」http://genpatufutaba.com/写真:左から堀切さとみさん、井戸川克隆・前双葉町長、双葉町民の鵜沼友恵さん、松木清隆さん(8 月19 日アップリンクにて)



<3分ビデオと祝島がきっかけ>

◆映画作りは初めてですか?

 映画を作るきっかけになったのは2008年のこと。町で出会った友人が「市民メディア講座」というチラシを配っていて、それを受け取ったことが始まり。そこに「あなたも作れる3分ビデオ」という講座があったんです。

 もともと大学生のころからドキュメンタリーが好きで、三里塚の映画などをみんなで観て感想討論などをしていました。まさか自分が作るとは考えていなかったのですが、「3分ならばできる」と思い、しかも家庭用のホームビデオカメラで十分だと聞いたので受講したんです。

 講師は松原明さん、国労組合員を追った『人らしく生きよう』など、社会運動の武器として使えるような映画を撮ってきた人。それで私も社会派の映画をつくろうと思い、上関原発に反対している祝島を撮ることにしました。

 元々原発問題には興味があって、祝島には2001年に一度行っているんです。友人がネットで調べて、原発建設に反対している島があると教えてくれたのがきっかけでした。 実はそれまでにもJCO臨界事故があった東海村や、浜岡原発のある町に行って、地元での反対がいかに大変かを聞いていたので、運動がずっと続いていることがにわかには信じられなかったんです。

 そこで友人たちと行ってみると、島の漁師である山戸貞夫さんがもてなしてくれ、毎週月曜日に行っているデモの話しをしてくれました。闘いのビデオも観て、徹底抗戦派だと思いましたね。しかも三里塚闘争の経験もあるということで意気投合したんです。

 その後、しばらく祝島のことは忘れていたのですが、ちょうど2008年が4年に1度の神舞(かんまい)の年だったこともあり、3分ビデオの取材に行きました。祭りの様子と風景を撮り、ナレーションを入れるぐらいでしたが、卒業作品としてスクリーンに映し出されると感動しましたね。

<スーパーアリーナでボランティア>

◆福島原発事故はあまりに衝撃的でした

 原発事故後はショックで、そうとう落ち込んでいました。それまで放射能や原発事故に関する学習会は随分やっていましたが、これだけの規模の事故が日本で起こると思っていなかったんです。「もう日本も終わりだ、マスコミは絶対本当のことを言わないだろう」と思って、本当は埼玉からも離れたかった。

 でも落ち込んでばかりもいられないと思っていた時、ちょうど事故から1週間後、近くのスーパーアリーナに福島の人たちが大勢避難してきました。それで炊き出しなどのボランティアに行きました。

 当初は、みんな必死で逃げてきて、やっと落ち着いたという感じでしたが、2~3日経つとだんだん飽きて退屈そうにしている。でも今後のことが不安だから、無駄なお金は使わずじっとしていたんです。

 私は、ここに避難している人は、恐らく故郷に戻ることはないだろうと思っていたので、そのことをどれくらい考えているのか聞きたかった。みんな時間を持て余している状態だったので、避難経路や、かつての仕事、今どういう気持ちでいるのか、震災の当日はどうだったのかを聞き書きしていきました。

 多くの人がボランティアに感謝する一方、それだけではない様々な思いもあったようです。

 避難している人の中には、大勢の学生ボランティアが集まって待機している姿を見て、「自分はただ情けを受けるだけの存在になってしまったようで切なくなった」と語った人もいました。

<家族10人で避難した田中さん一家>

◆多くの人は避難先を転々としています

 スーパーアリーナには、双葉町だけでなく大熊町や南相馬市など色々なところから避難した人が集まっていましたが、3月31日で閉鎖になりました。

 そこで双葉町は町長の決定で役場を騎西高校に移して、そこに避難所を設けることになった。他の町の人も小規模ながら避難先は決まっていましたが、1000人以上がまとまって避難できる場所を決めていたのは双葉町だけでした。

 テレビで加須市の人たちが騎西高校で避難所をつくる準備をしているのを見てほっとしました。放射能のリスクが少しでも小さいところに避難することになるからです。

 でも双葉町の人はその時点で少し絶望していたんですね。今度こそ福島に戻れるのかと思ったら、さらに避難先を移すと言うことで、避難が長期化することを感じていたからです。

 彼らは逃げている間、電波も通じないし、何が起こっているのかはほとんど分からなかった。何で避難勧告が出されたのか把握できず、2~3日で戻れると思っていた人が多かったんです。

 騎西高校には、土日の昼に行きました。当初は約1400人が避難していたので人であふれかえっていました。廊下に長椅子があって、そこでみんな井戸端会議をしたり、中庭では色々イベントやっていました。そんな中で片っ端から色んな人と話をしたんです。

 そうやって廊下で話していると、映画の最初に登場する田中信一さんが通りかかって「自分は家族10人でここに避難している、とにかく大変だ」と話しかけてくれたんです。田中さんは、名前も寝泊まりしている部屋も教えてくれた初めての人。次に行ったときに部屋を訪ねて、ゆっくり話しを聞かせてもらいました。

 3年前に家族10人で暮らせる立派な家を建てたのに、原発から3キロしか離れていなかったため住むことができなくなった。騎西高校に来てからも一月半ぐらいは何もせず、本当に死ぬことを考えていたという。それでも何とか立ち直ろうとしている人でした。

 その田中さんに撮影しても良いかと尋ねたらOKだったんですね。実は積極的に話をしてくれる人はいたのですが、カメラは回さないでくれという人も多いんです。

 その後何回か会った後、「自分はここを出ていこうと思っている。やっぱり福島が良い。借家が見つかったからそこに引っ越す」と言われ、そこで原発に残った義理の息子さんのことを話してくれたのです。

 田中さん一家はずっと東電で働いてきたので、事故の後始末を自分たちがやらなければという気持ちもあったのだと思います。福島に引っ越した後の仕事は、福島第一原発の構内の草刈りや一時帰宅する人の受付の仕事。やっぱり東電の復旧作業を何らかの形で手伝わなければいけない。事故を起こしたから「さようなら」ではないんですね。

※これに続く内容
 <故郷を想いながら避難所で盆踊り>
 <深刻化する双葉町民同士の対立>
 <第三者だからこそ聞けること>
 <映画を社会運動のツールにしたい>
 
(続きは本誌1339号でお読みください)

 

One Response to ドキュメンタリー映画『原発の町を追われて―避難民・双葉町の記録』 原発事故で避難している双葉町民の本音を伝える 「棄民として扱われていることを知って欲しい」

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