茨城県東海第二原発は3・11で外部電源を喪失し、3つの非常用発電機の内1つが津波の影響で動かなくなり、福島事故と同じ運命を辿る一歩手前だった。立地自治体の東海村では村上村長が廃炉宣言を行い、議会も住民請願を受け再稼動と廃炉について現在審議中だ。村や住民が再稼働反対に向けて動く中、日本原子力研究開発機構労働組合(以下、原研労組)が再稼動反対の声を上げている。行政や住民だけでなく、原子力関連事業従事者から再稼動反対の声が上がる意味は大きい。原研労組書記長・花島進さんに話を聞いた。(聞き手=ジャーナリスト・中村ゆうき)

プロフィール▶花島進(はなしま・すすむ)
原研労、書記長。元執行委員長。筑波大学物理学系博士課程修了。1980年から現職場で加速器の運転制御、制御システムの開発に従事。今年四月、原研労から声明、「拙速な原発運転再開に反対する」(http://wing.zero.ad.jp/genkenrouso/seimei.pdf)を出すにあたり、声明文を起草した。

<秘密主義に抗して作られた原研労組>

 戦後ソ連が水爆実験に成功すると、アメリカはアイゼンハワー大統領によるアトムズ・フォー・ピース宣言を機に核に対する秘密主義を一転し、米型軽水炉の市場確保に乗り出します。

 結果1963年に日本の原子力研究所が、GE(ゼネラル・エレクトリック)社から実験炉を購入し発電。その後、敦賀原発や福島原発など1960年代の原発建設ラッシュが始まりました。日本政府は米国のGE社とWH(ウエスチングハウス)社の軽水炉を安全が実証された物として無批判に受け入れました。これが「安全神話」の始まりです。

 原子力研究所発足の1956年に原研労組が早々組織されたのは、諸外国では原子力は軍事と通じているのが普通で、秘密主義の中で人権侵害がおこる危険性を恐れていたからだと思います。労働者という立場でそれに対抗しようと考えたのでしょう。

 原子力基本法には「公開、民主、自主」という平和利用三原則が載っています。原研労組は、原子力を戦争に使ってはならないと考え、原水禁運動などに参加してきました。我々としては平和利用を担保するためだけではなく、「公開、自主」がなければ科学技術のまともな発展はないということを念頭に活動してきました。

 スリーマイル事故以前、原発が次々に作られようとするころから、原研内にも原発の安全性に疑問を持ったり、国の性急な政策に異論を持つ研究者・技術者はいました。原研労組は、それらの見解を表明する自由を確保しようと努力してきましたが、そのためにあちこちから敵視されてきた歴史があります。

 労組が派遣した原発講師や、原子炉の事故に関する論文の著者に原研当局が圧力をかけたり、処分したりする事件はたくさんありました。人事差別も行われました。数え上げればきりがないです。第2組合が作られた時もあります。

 このような当局の政策などがあって、労働組合の組織率は低下しましたが、組合の基本理念が変質することはなかったように思います。差別された人でも、職場で堂々と仕事をし、活動を続ける人が多かったと思います。

 「軽水炉は実証済み」という人はいました。上の地位にいる人たちは、そのような考えで原子力を進めてきたのですが、福島第一の事故で、「大きな事故は起こりうる」ことが「実証」されました。先輩たちの危惧、性急な原子力開発に対する異議は妥当だったのです。

(続きは本誌1330号でお読みください)

 

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