また弱者に矛盾を押し付けて済まそうとするのか?

福島第一原発事故は未だ収束していない。にも関わらず、玄海原発を皮切りに停止中の原子炉の運転を再開しようとする動きが強まっている。かつて全国各地で問題となった公害問題同様、住民の生命や健康より経済活動を優先する構図だ。四日市公害を世に広め、原告側証人として告発した経済学者の宮本憲一さんに話を聞いた。(聞き手=温井立央)

プロフィール▼みやもと・けんいち
1930年、台北生まれ。大阪市立大学名誉教授、前滋賀大学長・同学名誉教授、立命館大学客員教授。日本地方財政学会理事長、前自治体問題研究所理事長、日本環境会議代表理事などを歴任。著書に『社会資本論』(有斐閣)、『恐るべき公害』(岩波新書)、『維持可能な社会に向かって』(岩波書店)、『日本の地方自治 その歴史と未来』(自治体研究社)、共著に『アスベスト問題―何が問われ、どう解決するのか』 ( 岩波ブックレット) 、『環境再生のまちづくり―四日市から考える政策提言』(ミネルヴァ書房)他多数

<石油ショックを契機に原発拡大>

原発事故は過去にもありましたが、今回は3つの原子炉と4つの使用済み核燃料プールが同時に制御不能になる前例のないものです。しかも収束する見込みがたっていませんので、被害規模はチェルノブイリを上回る史上最悪の原発災害になると思います。

もともと日本は原爆の被害にあっていましたから、戦後まもなくは原発導入に非常に慎重でした。そうした中1950年代、アメリカが有り余っていたウランを売るために、日本に原発導入を強要します。しかし当時は、第五福竜丸の事件もあり、反対論が非常に強く、設置はなかなか進みませんでした。

それが変わったのが1973年の石油ショックです。当時、日本はエネルギー源を石炭から石油へ大転換して、エネルギーの中心が完全に石油に移っていました。石油ショックで重油の値段が何十倍と跳ね上がれば、即座に経済的危機に陥る。それで政財界は原発導入を急速に進めたのです。

1974年には田中角栄内閣が電源三法を作り、お金をばらまくことで反対論を押し切って、原発を設置する仕組みを生み出した。そこから原発が日本各地に急激に広がった。

その後スリーマイル島原発事故、チェルノブイリ事故があり、他の国がほとんど新規建設を停止していた時にも、日本はどんどん原発を建設し続けた。結果、狭い国土に54基、しかも30年以上稼働した非常に老朽化した原子炉を数多く抱えることになった。

しかも地震や津波の恐れのある場所に、反対を押し切って無理矢理作ったわけですから、事故が起きる可能性は非常に高かったのです。

原子力発電が日本で最初に稼働したのは1963年です。当時は深刻な公害被害が日本全国で起きていました。にも関わらず現在の「原子力村」同様、公害に言及する研究者の意見はなかなか採用されませんでした。

「経済成長は必要なんだから公害に反対するのはおかしい。いくら空気が汚くなり、川が汚れたって、人間は生きていける。我慢すれば良い」と非常に乱暴なことを言う財界人がいたのです。

<産業の発展を前提にした公害対策>

しかし水俣病などが明らかになり、しかも四日市の公害問題産業の発展を前提にした公害対策によって、全国に同じような大気汚染が広がることがはっきりしたことで、公害反対の世論が非常に盛り上がりました。

1963年から64年に静岡県の三島・沼津で石油コンビナート誘致反対運動があり、政府と財界が決めていた地域開発がはじめて阻止されました。これは政財界にとって非常に大きな衝撃で、経済成長が反対運動によって止められると感じた。それを防ぐために1967年に公害対策基本法が成立しました。国が公害対策をするという姿勢を見せることで、経済成長を進めようとしたのです。

公害対策基本法は、公害対策に関する初めての国の法律でしたが、内容は非常に不完全でした。公害対策基本法第2条の「目的」には「産業の健全な発展と生活環境の保全と調和を図る」とある。本来は生活環境の保全を行うとだけ書かなければいけないのに「産業の健全な発展」が前提になっているのです。

健康や安全のために公害対策をするのではなく、はじめから経済成長を進めるために一定の範囲内で安全を考えていた。あくまで企業が発展する範囲内で公害対策を行う考えを、私たちは「調和論」と言いました。

しかし「調和論」を前提にした法律では結局公害を防げず、被害が広がっていきます。そこで東京都や大阪府の革新自治体が法律よりも厳しい条例を作りました。それを学会や市民が支持したため、政府は1970年の公害国会で、調和条項を外し生活環境の保全だけを明記した法律に改正せざるを得ませんでした。

この改正は非常に大きな前進と思われましたが、実際には政財界は、ずっと経済成長政策が基本で何も変わらなかった。だから今回のような事故が起きても原発が依然として稼働し続けているわけです。

そもそも公害対策基本法が制定されるとき、私たちは一番深刻な公害の可能性として放射能汚染を考えました。ところが政府は放射能を公害対策基本法に入れようとしなかった。原発は国が責任をもって作るのだから、企業の公害と一緒にしない方が良いとの理屈をつけたのです。

こうして放射能を公害問題から切り離したのは、はじめから原子力を国家政策として保護する方針だったからだと思います。1960年代から70年代にかけては非常に強力な公害反対運動がありましたが、原子力だけは切り離された。それが原子力反対運動が孤立した原因の一つだと思います。

いまも「経済成長のためには原発を続ける必要がある」との意見が根強くあります。これは公害問題での調和論が、エネルギー政策に露骨に現れているような気がします。

(続きは本誌1317号でご覧ください)

 

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