新年早々観に行った話題の映画『アバター』。
 その感想にしては哲学的なタイトルをつけてしまったが、このように書かざるを得ない。

 そもそもこのアメリカ映画の新作を、私は元日、アメリカにテロ支援国家の扱いで目の敵にされているシリアの首都ダマスカスで観た。
 映画館を満席で埋めた観客は、シリアの中でもどちらかと言えば富裕層に当たる人々に見えたし、もともとが娯楽映画。
 だから多くの人は全く現実世界の政治とは関係ないものとして鑑賞している。

 そんな観客に混じり、普段の生活の中で戦争の被害者に接する仕事をしている日本人がいる。
 これがかなり特殊なケースであろうことは確かである。だが、特殊だからこそまた見えてくるものがある。

 さて、本題の映画の中身だが、美しい映像で描いているものの中身は相当シリアスで、遠く離れた星の資源を収奪しようとする人間の暴虐さをこれでもかと見せる。
 もしこれがドキュメンタリーなら観客は最後まで耐えられないだろうが、あくまでも架空の世界の出来事という了解のもとに話は進む。

 しかし、主人公が自分の姿をアバターに託して別世界の一員になる設定は、観客である私たちもまた、架空世界の一員となる追体験へと導く。
 だから否応なく、自分の心の中で映画が象徴する現実に向き合うことになる。
 そう、現実世界の人間の暴虐ぶりに。

 特にこの映画を作った国アメリカは、実際にここ中東で何をしてきたのか。
 それを目の当たりにし、聞いているだけに、いくら架空の話だと了解はしていても、だんだん観ていて辛くなるのだ。
 総攻撃のシーンはイラクを思い出してしまい、涙なしに席に座っていることはできず、そんな私を隣の観客が不思議そうに見ていた。

 現実の世界で問題を引き起こしつつ、こんな批判精神を織り込んだ映画を作ってしまうのもまた人間である。
 しかし、自然や人間性の破壊は、もう後戻りできないところまで来てしまったのではないかと悲観的になる。

 映画の結末も、私から見れば解決になっていない。
 自然からのしっぺ返しで破壊者である人間は敗北を喫する。

 しかし主人公は心を痛めることはあっても、破壊者の側の人間であった責任からは逃れているし、最後には正義があり、より強い力を持つ者が勝つという結果で収まっているようにも思える。

 そんな風に考えた瞬間、イラクに対する戦争を支持した国の一員でありながら、その責任から逃れている自分自身が二重写しになって頭がくらくらした。

 CGを駆使した映像で観客の目を驚かすことはできても、結論は実に陳腐で現実的な力のバランスの論理に終息している。
 そこに本当の解決はない。
 作品として面白かったと言えばその通りであるが、見終わった後に違和感と疲れが残った。

文=原文次郎
日本国際ボランティアセンター(JVC)イラク現地調整員(在ヨルダン)。イラクで医療支援やイラク国内の避難民へ食料支援等を行う。2003年電機メーカー退社後、アメリカの難民支援NGOでのインターンシップを経て、2003年7月より現職。

監督=ジェームズ・キャメロン
2009年/アメリカ/2時間42分
公式サイトhttp://movies.foxjapan.com/avatar

【STORY】
元海兵隊員のジェイクは、衛星パンドラで実行される「アバター・プログラム」へ参加。星の先住民ナヴィと人間との遺伝子から造られた肉体「アバター」を操作すべく意識を送り込まれる。アバターとしてパンドラの地に降り立ったジェイクはナヴィの族長の娘ネイティリと出会い、恋に落ちる。次第にジェイクの胸に採掘プロジェクトへの疑念が生まれる。

 (2010年3月号掲載)

 

 

Comments are closed.