『Actio』2009年11月号特集「ローカルがたのしい」

ローカルな出会いが生み出す風景
 撮影・小川幸吉
  文・水澤努

 「どこかこの富士の、あまりにも棒状の素朴には閉口して居るところもあり、これがいいなら、ほていさまの置物だつていい筈だ…この富士の姿も、やはりどこか間違つてゐる」

 生誕100年でブームとなっている太宰治『富嶽百景』の一節。太宰は通俗化された富士の凡庸なイメージに抵抗する。

 バスに同乗した老婆が富士と正反対の崖を見つめる姿に己のニヒルを重ね、「富士なんか、あんな俗な山、見度くもないといふ、高尚な虚無の心を、その老婆に見せてやりたく思つて」すりよったとき、老婆は一輪の花を指差した。「富士には、月見草がよく似合ふ」というあまりにも有名な一句に続くくだりだ。

 だが、そんな斜に構えた太宰でも、富士の存在感に圧倒される。

 「富士にはかなはないと思つた。念々と動く自分の愛憎が恥ずかしく、富士は、やつぱり偉い、と思つた。よくやつてる、と思つた」

 ステレオタイプ化された富士の凡庸さに抗いながらも、リアル富士の存在感にドン・キホーテのように跳ね返されてしまうのだ。

 別に富士に限ったわけではないだろう。自然の懐に抱かれたローカルな場所は、人の虚無やシニシズムをも飲み込んでしまう磁場を発生する。そうした場との出会いが新たな心象風景を生み出していく。人々と自然とのつながりの数だけ風景は存在する。グローバリズムによって脱色された風景は、ローカルな場でのリアルな出会いによって再び生気を取り戻す。

(2009年11月号掲載)

 

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