若者が当たり前のように生活していける社会
持続可能な雇用・若者支援をデザインしたい

世界的な経済危機の波は、格差や派遣切りに苦しむ若年世代を直撃している。
未来を担う若者が希望を持って生きていける社会をどうつくるのか?
若者支援の必要性を訴え続けている本田由紀さんに聞いた。

<「ニート」問題は他人事じゃないはず>

◆今年の青少年白書が発表されました

白書によれば、学校に行かず仕事も職業訓練もしない「ニート」と呼ばれる若者は、昨年全国で64万人に達したようです。その理由として白書では主に、不登校や中退など学校段階でのつまずきに焦点を当てています。

確かに学校でつまずいた人が「ニート」になる確率は高いのですが、労働市場、職場でのつまずきによって就労意欲を無くす人もたくさんいます。様々な調査でもかなりの割合の「ニート」は、就労経験がある人たちです。2007年6月に厚生労働省が発表した調査結果では、8割の「ニート」が就労経験をもっていました。

こうした問題は、本人の精神的問題、あるいは学校・家庭の問題とされがちで、労働市場や企業の処遇、雇用問題とは切り離して論じられる傾向があります。内閣府の青少年白書も同様です。しかしこれは間違いです。さすがに厚生労働省などは若年の就労問題に焦点を当てていますが、日本の縦割り行政の弊害か、それらがかみあっていかない。

2003年に初めて政府は「若者自立・挑戦プラン」を立ち上げました。それ以前も様々なNPOが草の根的に若者支援を行っていましたが、こうした活動に政府や自治体が予算をつけるようになった。現在は実に多様な支援が行われています。

しかしここにも大きな問題がある。労働市場とかみあう構造が欠落していることです。若者を支援し、なんとか働く意欲を回復してもらうには、労働市場や企業との連携が不可欠です。また労働組合も若者支援にもっと乗り出してもいいはずですが、今のところ目立った動きはありません。さらに教育機関の関与もまだまだ不十分です。

つまり、進学や就職をするコースから外れてしまう若者たちを支援する受け皿として様々なNPO等が活動しているとは言え、「問題のない」人たちと「問題のある」人たちの世界はいまだに確固として切り離されているのです。

障害者の権利も未だ十分に守られていませんが、まがりなりにも法定雇用率などが存在します。しかし苦境にある若者に関してはそうした規定はありません。その意味では、一回でも既存の枠組みから弾かれればそのまま捨て置かれてしまうリスクは、若者のほうが高いとも言える。

本当は「問題のない」人たちが生きている中核となる世界こそが問題なのです。労働条件が過酷な、大変厳しい競争社会。その矛盾に手をつけずに、そこから弾き出されてくる人たちをいくら受けとめても限界があると思います。

<自己責任一般では何も解決しない>

◆昨年NHKで太田光さんと論争されました

太田さんは典型的な自己責任論を主張されましたが、それを振りかざす前提そのものが崩壊しているのです。そもそもこれまでの日本社会は、とてもエゴイスティックな私的欲望によって回ってきた社会です。同時にそこでつくられる集団や組織の在り方はとても閉鎖的です。個人や閉鎖的な集団がそれぞれエゴイスティックに利害を追求し、競争してきたのが日本社会の本当の姿だと思います。

これは戦後の高度経済成長期以降の話ではなく、戦前から存在していました。ただ戦前は「天皇の赤子」的な発想でごまかされていたし、「御国のため」との共同性をかもしだすオブラートに包まれていた。それが戦後は、私利の追求による経済成長が幸せをもたらすとの幻想にとって代わったのです。

ところがバブルが崩壊した1990年代、パイの拡大そのものにはっきりと限界が見えた。みんなが競い合うことによってパイが拡大する、その結果みんなが幸せになるとのシナリオが崩れ、にも関わらず私利の追求、悪無限的な競い合いの構造だけが残った。まさにゼロサムゲーム的な剥き出しの生き残り競争になってしまったのです。そこにネオリベラリズムの考え方が共振したと言えるでしょう。

高度経済成長期以降の日本の発展は、第二次産業を中心として、標準的なものを一定のクオリティで生産する大量生産―大量消費的な産業構造だった。これが80年代には多品種少量生産に変化していきますが、90年代にはさらにサービス経済へといっそうシフトする。標準的なものは世の中に溢れ返り、いかにして高付加価値を生み出すのか、あるいは不必要なほどのハイテクやデザインで消費者をどれだけ惹き付けられるかが勝負になる。

そうなると、地道に努力し真面目に働いて集団に同調する、かつてのような標準的なタイプの人間像では対応できなくなってしまう。ポスト・フォーディズムの時代ですから、個性的で創造性に富んだ人材こそが求められます。集団に同調するよりも、より自由な個人が称えられるようにもなった。

しかし、そもそも経済は飽和状態なのです。パイは拡大するのではなく、どんどん縮小していく。にも関わらず、成功するもしないも個々人の才能、意欲、努力の帰結だと切り捨てられてしまう。こんな自己責任論では、ますます多くの人たちが社会から脱落していくだけです。

★続きは『Actio』1294号(2009年8月1日発行)で!

プロフィール▶ほんだ・ゆき
1964年生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。教育学博士。94年から日本労働研究機構(現労働政策研究・研修機構)研究員として数々の調査研究プロジェクトに従事。2008年より東京大学大学院教育学研究科教授。『若者と仕事――「学校経由の就職」を超えて』(東京大学出版会)、『多元化する「能力」と日本社会――ハイパー・メリトクラシー化のなかで』(NTT出版)、『「家庭教育」の隘路――子育てに強迫される母親たち』(勁草書房)、『軋む社会――教育・仕事・若者の現在』(双風舎)など主著、共著多数。

 

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