私は東京23区の小学校に勤めているが、毎年必ず行われる大きなセレモニーは、言うまでもなく卒業式と入学式だ。

 子どもたちにとっては一生に一度の経験だが、学校にとっては例年行事。そのためかどの学校でも式の内容はほとんど同じで、かなり画一的で形式的だ。これで果たして子どもたちの記憶に残るのかと、常々疑問を抱いてきた。

 開会の挨拶に始まり、起立して「日の丸」と校旗に敬礼。私は一応立つが、意味が分からないから敬礼はしない。来賓と校長が祝辞を述べるが、どれもこれも形だけのお決まりの言葉。

 「国歌斉唱」も、淡々と何の感動もなく行われる。もちろん私は歌詞の意味に価値を感じないから歌わないが、そもそもきちんと歌詞の意味を教えないで「国歌」として歌わせるのはいかがなものかと思う。なぜ国歌を設けて歌う必要があるのかも、子どもたちはほとんど理解していないはずだ。

 しかし、一番大切な内容については触れてはいけないかのようである。意味や価値を教えないで、形だけ歌わせ敬礼させる。卒業式や入学式は、体裁を保つことだけが目的になっているとしか思えない。

<仏創って魂入れず>

 義務教育を受けた大人なら、誰もが経験した入学式と卒業式。どんな言葉が記憶に残っているのかを思い出してもらいたい。

 もう30年以上も前の話だが、私は小学校の卒業式で送辞、答辞を読み上げたことは覚えている。自分で内容を考えた記憶は微かに残っているが、最終的に自分の言葉で語らなかったからだろうか、想い出すのは極度に緊張したことと何度も練習をしたことのみである。

 今は歌わなくなった「蛍の光」や「仰げば尊し」を歌いながら、友達との別れに涙したことは憶えているが、校長や来賓の言葉はまったく覚えていない。意味や価値を受けとめなければ感動はなく、記憶に残るはずはないのだ。

 ところで小学校の学習指導要領の儀式的行事の項目では、「学校生活に有意義な変化や折り目を付け、厳粛で清新な気分を味わい、新しい生活の展開への動機付けとなるような活動を行う」と謳っている。この目的を認めるとしても、「君が代」や国旗(日の丸)を形だけ挿入すれば良いのだろうか? そんなことをすれば逆効果にしかならないと思う。

 普段学校生活の中で、国旗や国歌が登場することはほとんどない。にも関わらず、卒業式や入学式では唐突に脈絡もなく押しつけられるから、子ども達は受け止められない。これでは、「自分で考え、判断する」との教育目標からはほど遠くなるばかりだ。

 学校や先生がその気になれば、創意工夫溢れた式を準備することは十分可能なのだ。ある卒業式では、担任と生徒達の創作によりプロジェクターを使用して6年間のアルバム上映が行われた。これはとてもおもしろく印象に残った。

 こんな活き活きとした卒業式こそ、子どもたちが望んでいるものだ。儀式は何のために、誰のために行うのか、そこに参加する子ども達はどう感じて思い出にするのか。その原点に立ち返って教員達も考えてほしい。教育委員会の処分に怯え、体裁だけを保つことに翻弄していては、結局は大人の見栄や自己保身のための儀式にしかならない。

<義務の履き違え>

 学習指導要領には、「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」とある。

 これを受け東京都教育委員会は、2006年3月13日付で「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の指導について(通達)」を都立の中・高校に配布をしている。

 「今般、一部の都立高等学校定時制課程卒業式において、国歌斉唱時に学級の生徒の大半が起立しないという事態が発生した。ついては、上記通達及び通知の趣旨をなお一層徹底するとともに、校長は自らの権限と責任において、学習指導要領に基づき適正に児童・生徒を指導することを、教職員に徹底するよう通達する」

 一方同年9月21日、東京地裁は次のような判決を下した。

 「国旗や国歌は強制されるものではなく、国民に自然と定着させるべきもので、それが学習指導要領の理念だ」「国旗への起立や国歌斉唱強制は『不当な支配』であり違反(教育基本法10条1項)であり、都教委のしたことは思想及び良心の自由を侵害した行き過ぎた処分」

 石原都知事はこの判決に対し、「この裁判官は教育現場を何も分かってない」と批判したようであるが、分かってないのは都知事のほうだ。子ども達は卒業や入学の喜びや悲しみ、不安などの微妙な感情を抱えて式を迎える。それを考えれば、裁判で争われ司法が「不当な支配」を判断している問題になぜこだわるのか? まさに子どもたちを政治やイデオロギーの争いに巻き込むことにしからないのだ。

 しかも政治的に賛否両論があることが分かっているからこそ、文科省や教育委員会は意味や価値を曖昧にしたまま強制している。国家の定めた義務教育だから、形式通り儀式を受け入れろと言わんばかりだ。

 しかし、衆知の通り義務教育の「義務」は、国や親が子ども達に平等に教育を受けさせる義務を課したもの。職業や収入など親の境遇の違いや地域格差等を理由に、子ども達の教育を受ける権利や機会に不公平が生じないように、大人に課せられた義務であることを忘れないでほしい。

 今年も間もなく桜の舞う季節。子どもたちの一生の想い出になる卒業式、入学式が行われることを切に願う。

 足尾衛(40代 小学校用務主事)

(1287号 2009年3月10日発行)

 

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