多面的世界における「人間フリードマン」―リバタリアニズムの帰結と21世紀資本主義の未来

<問われる市場・資本主義像>

 経済学の歴史は「市場メカニズム」をめぐる認識の「対立」史といってもよい。かつて87歳のフリードマンは青木昌彦氏と悠然たる討論を行ったが(2000年1月4日「読売新聞」)、政府の過剰コントロールを最大の脅威とみなし、あくまで市場システムに全幅の信頼を寄せるフリードマンに抗して、文化や社会規範・歴史依存性、政府の弾力的役割の組み合わせによる、各国経済システムの多様性を重視する青木の学説とのコントラストが示唆に富む、なかなか刺激的な「対話」である。

 フリードマン(と夫人)の著名な代表的啓蒙書である『選択の自由』(1980年)で力説された「市場の威力」は、利潤率の低い所からより高い所に向かって世界中を自由に闊歩する「グローバル資本」や「投機マネー」の席巻によって、今や「市場の暴力」へと転換を余儀なくされてきている。

 閉塞感に満ちた「歴史の危機」、そしてまた「主体の危機」の時代に生きていることを明確に自覚し、フリードマンの市場メカニズム万能論や競争資本主義論を真摯に再省察するとともに、21世紀資本主義像の開拓のために、われわれは限られた知性をあらためて結集しなければならない。

 こうした情勢下、フリードマン評伝(2007年)の邦訳が刊行された。序章を含む全25章からなる本書は、経済理論・政策論、リバタリアニズムの思想を中心として、彼の生涯と学問的業績を平易に解説することを目的としている。

 表題に付された(説明なき)「最強の経済学者」なる文言には留意すべきだ。挑発的なタイトルは読者に余計な先入観を与えうる。間宮陽介氏は宇沢弘文氏との対談において、なぜ「フリードマンが最強の経済学者などと持ち上げられてしまったのか、私には非常に不思議に思われます」と率直な心情を語っている(『世界』2009年1月)。「不屈の経済学者」が妥当であろう。なお同社の新訳版『資本主義と自由』(初版1962年)との併読も推奨したい。

<多面的世界のフリードマン>

 G・ソロスの『グローバル資本主義の危機』では、「市場原理主義」の急先鋒的イデオローグとしてフリードマンが名指しされる。彼は望ましい資本主義の形態を「自由な私有財産(free private property)」の3語で表現しうるとした(308頁)。第15章「資本主義と自由」と第20章「選択の自由」、第18章「政策提言」と第21章「レーガン」をセットとみれば、彼の経済思想は「新自由主義(ネオリベラリズム)」・「自由至上主義(リバタリアニズム)」―徹底した自由主義・個人主義・市場主義―の源泉であり、真っ先に批判されるべき「シカゴ学派」の代表的論者に直結される。

 規制緩和・減税そして民営化に象徴される「小さな政府」の促進、自由貿易と変動為替相場制の機能的意義、金融政策(マネーサプライの安定供給)によるインフレ抑制と物価安定の重要性など、フリードマンの単純明快な政策提言は、レーガノミクスやサッチャリズムの支柱となり、世界的規模での影響力を顕著に行使してきた。その余波は急進的な新自由主義小泉政権にも及んだ。しかし自由な競争的市場に委ねれば効率的で公正な経済秩序を実現しうると想定する新自由主義は、その理念に矛盾して重大な災厄と危機を惹き起こした。それらの具体的様相は記憶に新しい。

 市場主義的「構造改革」派の先導者・中谷巖氏は、昨年末に刊行された『資本主義はなぜ自壊したのか』という注目すべき「自戒」書を通じて、グローバル資本主義それ自体に深刻な不安定性・経済格差を生み出す破壊性が内包しており、アメリカ発新自由主義を普遍的原理とみなすことは誤謬であると反省的に喝破した。

 新自由主義はそれが批判する国家権力(極大国家)を逆説的に出現させると同時に、「自由化のなかの不自由化」を助長する(間宮)。それはまさにD・ハーヴェイが呼称した「新自由主義国家」だ。新自由主義が資産家・富裕階級の権力奪回を企図する一種のイデオロギーならば、理想と現実の乖離は当然の帰結といえる。こうして「最強」でなく、むしろ「元凶」としてのフリードマン像が自然と浮かび上がるかもしれない。

 とはいえ本書は、人間フリードマンの「多面的ドラマの軌跡と諸相」を克明に描き出した、優れた「評伝」に仕上がっている。「フリードマンは、はじめからマネタリストだったわけではない」(151頁)のであり、当初は「異端者」だった(178頁)。

 研究・教育者の素顔、家族を愛する良き夫・逞しい父親、恩師(ヴァイナーやナイト)と数多くの同僚・論敵(スティグラー、サミュエルソンやガルブレイスら)との交流、コラムニスト・経済顧問としての活躍など、彼の壮大な知的遍歴はまことに刺激的である(第3章「シカゴ大学 コロンビア大学」、第9章「家族」、第10章「教授」、第12章「ケインズ」、第17章「同僚」、第22章「ハイエク」の諸章を参照)。

 ゆえに、「今日、フリードマンに対するもっとも一般的な評価は、おそらく『リバタリアニズムの著名な理論家・信奉者』にとどまるのではないか」(12頁)という一面性の変更を迫ることにも当該評伝は寄与している。

 知られざるユーモア溢れるエピソードを巧みに盛り込む軽快な筆致からは、「自由なる選択」者(論客)として一時代を築き、果敢に生き抜いてきた人間フリードマンの力強さが如実に汲み取れる。確固たる信念を貫徹しようとするタフな人生模様がそこにある。賛否はひとまず措くにせよ、含蓄ある「言葉」も興味深い。

 「94年(1912~2006年)」の長さを鑑みれば、本書はある意味で「20世紀経済学の縮図」としての意義深い力作といえよう。「ミスター・ミクロ」の多面的世界に見事に肉薄しえたのは、豊富なインタビューを含む著者の綿密な調査努力の賜物である。

<21世紀の経済学に向けて>

 かつてソ連崩壊を「リベラル民主主義と資本主義」の圧倒的勝利(=「歴史の終わり」)と総括したF・フクヤマは、「ニューズウィーク日本語版(2008年10月29日号)」の特別寄稿文のなかで、昨今の世界金融危機は、アメリカの輸出品である「思想という名のブランド力」―経済成長の原動力としての減税・規制緩和など「小さな政府」の樹立、自由主義と民主主義の世界各国における浸透を標榜する「思想」―の威光を急速に減退させていると主張している。掲載誌の表題は「資本主義の未来」だ。

 本書巻末「インタビュー(2005年)」の最後の質問で、フリードマン自身が「経済思想史の完結」、「歴史の終わり」というフクヤマの認識を否定していることは印象深い。思想と時代は変転し、総じて「資本主義の未来」は時空を超えた普遍的主題である。

 ケインズよりフリードマン、マルクスよりスミスという「時代の潮目」は変わりつつある。資本主義の動態性・革新性・不安定性について独自のヴィジョンを確立したマルクス、ケインズやシュンペーターから学ぶべきことはなお多い。21世紀の経済学は、先達の遺産をより深化させる学問精神、いわば「共創の精神」によって導かれる。

 フリードマンは『資本主義と自由』の「結論」で、「経済への影響力がすでにどれだけ政府に握られていようと、自由を守り自由の範囲を広げることは不可能ではないと私は信じる。だがそのためにはまず、直面する脅威に目覚めなければならない」と総括した。

 今日のわれわれが「直面する脅威」とは果たして何か。集権主義・官僚主義の弊害をめぐる彼の鋭い洞察は枢要ではあるが、他方でまた、「市場経済」と「自由主義」を万能視しえない以上、いかにこれらと対峙すべきか、各々の概念的基礎を絶えず問い直してゆく地道な認識営為が不可欠だ。その第一歩を踏み出すべく、フリードマン評伝は貴重な指針と概観を提供するだろう。一読の価値は大とみる。

(塚本恭章 1974年生、東京大学大学院経済学研究科修了、経済学博士)

(1287号 2009年3月10日発行)

 

 

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