人生と家族、コミュニティが壊された

 今年12月に開催される「水俣・千葉展」。先日それに向けた集まりに参加し、主催者から話を聞き衝撃を受けました。私は水俣病について一応知識を持っていたつもりでしたが、現在でもなお認定申請する患者さんが後を絶たず、公害発生後に生まれた30代、40代の人が発病していることを初めて知りました。

<水俣病は終わらない>

 水俣病発生が公式確認されたのは1956年。チッソから有機水銀を含む排水が水俣湾にたれ流され、魚介類を食べた人々が水銀中毒となりました。しかし国が水俣病を公害病と認定したのは1968年。発見されてから12年も経っていました。その後、患者は訴訟を起こしますが決着までに長い年月を要し、1996年に政府の解決案を受けて未認定患者とチッソとの間で和解協定が結ばれました。

 公害発生から半世紀、今も患者さんの苦しみは続いていますが、和解以後は急速に事件の風化が進んでいるとの指摘もあります。そんななか展覧会の主催者である水俣フォーラムは全国各地で展覧会を開催しています。『証言 水俣病』もその一つ、1996年に東京で開催された「水俣・東京展」での10名の患者の講演を採録したものです。

 水俣病によって身体だけでなく人生や家族、そして地域コミュニティや環境が破壊された様子が詳細に綴られています。同時に彼らの語る言葉に「公害病」では片づけられない生の重みと「豊穣さ」を発見するのです。

 下田綾子さんの家では、1956年に妹の静子さんと実子さんが発病。静子さんは亡くなりましたが、綾子さんは現在も食事や風呂など実子さんの面倒をみ続けています。

 荒木俊二さんは天草郡の島、御所浦に住む腕の良い漁師でした。魚が主食で、芋や米がおかずというくらい魚のとれた島でした。しかし魚が売れなくなっては生きていけないと、役場が率先して「御所浦には水俣病患者はいない」と宣言し申請を止めてしまいました。

 佐々木清登さんは芦北町の女島で漁師をしていましたが、魚がとれなくなって八幡へ転居してからは水俣病のことを口に出さずに暮らしていました。お父さんが亡くなり女島へ帰ってみると、認定された人と未認定の人が相互に疑心暗鬼になって、町の雰囲気が全く変わっていた。これではいけないと未認定の患者の運動に関わり始めたといいます。

 杉本栄子さんは網元の娘でした。30、40軒あった網子(網元に雇用されている漁師)さんの家族はみんなが親戚同然でした。それが杉本さんの家族に「奇病(水俣病)」が出た途端に変わってしまった。辛い経験もあったが、現在は水俣病のことさえも「のさり」(土地の言葉で自分たちが求めなくても大漁したこと)だと思い、海と語らいながらイワシ網漁をしています。

<切り捨てられた個々の生>

 水俣病の歴史は、被害者救済を求めた長い裁判闘争の歴史でもありました。しかし本書は、病気の発生の公式確認や見舞金契約、水俣病裁判や補償の為の県債発行、国賠訴訟など「処理の制度」を追うのではなく、個々の人々の生き方に焦点を当てています。

 私には96年の「政治的和解」が悪いことだと言い切れませんが、そのことで切り捨てられる個人の生があると感じます。膨大な患者さんがいるにも関わらず、体験者の話を聞くことはありません。本書に収録された患者さんの言葉に触れると、問題を処理するシステムから「はみだすもの」の中にこそ、本質的で大切なものがあるように思えてくるのです。

 編者の栗原彬さんは、日本思想史研究者のヴィクター・コッシュマンが「水俣病患者」を英訳した時の驚きを書いています。その訳は Minamata disease sufferer 。「患者」という言葉に「受苦者」という意味の sufferer が当てられていたのです。水俣病が医学上の病気だけでなく、「もっと社会的、構造的に与えられた全体的な苦しみであり、患者はそれを引き受けてきた人びと」と捉えたのです。

 水俣病患者は社会的な差別や偏見を受け、補償はなかなか進みませんでした。それは病気以上に辛いことだったでしょう。水俣病の苦しみが「社会的」なものだとすれば、その「処理」もまた「和解」という社会的な仕組みの中でなされるものかもしれません。

 確かに「政治的和解」以降、水俣病をめぐる多くの裁判が取り下げられました。しかし救われないものもあります。だからこそ1人の人間としての「個」に帰り、発話していくプロセスがはじまっているようです。私たちにできるのは、そのような1人1人の人間に対して、同じように一個人として向き合うことではないでしょうか。そんな読後感を持ちました。

 (あらいじゅんこ)

(1281号 2008年12月10日発行)

『証言 水俣病』(栗原彬・編 岩波書店)