政権交代をかけた衆院総選挙が迫っているが、保守と革新の対立軸は見えにくくなるばかりだ。その間隙を突いてネオリベラリズムは進行し、地方の経済もコミュニティもズタズタに引き裂かれている。政治には何が問われているのか。北海道大学公共政策大学院准教授の中島岳志さんに聞いた。

 

  
中島岳志さん

<左派のアイデンティティは「平等」>

◆政治のメタ論議を訴えておられます

 自民党と民主党とが政権を争っていますが、どちらも政策理念の軸を見失っているように思います。どちらが保守で、どちらが社会民主主義なのか良く分からない。対立軸が見えないのです。

 この傾向は左右のあらゆる政治勢力に見られ、存立の根拠が希薄化している。だからもう一度原理原則に戻って、各勢力にとって何を根本的な政策理念にするのかを考え直すべきだと思います。これは政界再編にもつながるでしょう。そう考えて『論座』で政治のメタ論議を訴えました。

 例えば左翼の考え方を大きく括ると、人間の理性的な努力によって社会を進歩させ、未来に平等な世界を実現しようとする思想だと思います。そのための手段については大きく二つの考え方があり、一つは国家による分配、国家を使って平等社会の実現を目指す立場です。もう一つは国家権力を極力縮小化あるいは除去し、自立した個人の対等な関係によって平等社会をつくる発想です。

 前者については、かつての共産主義や国家社会主義、現在では社会民主主義が代表しています。後者はかつてのアナーキズム、現在では市民社会主義や柄谷行人さんの主張するアソシエーション主義、リバタリアン社会主義、マルティチュードなどですね。

 左派はこうした見取図をはっきりさせて論理を組み立てるべきではないでしょうか。というのも、マルティチュードや市民社会主義を主張する人が、国家からの再分配を要求するような論理矛盾がしばしば発生するからです。プレカリアート運動でも、僕と同年代のロストジェネレーションの論壇などでも同様です。極めて反国家的でありながら生活保護などの充実・拡大を要求し、国家がしっかりと再分配しろとの言説が目立ちます。国家や再分配の問題を捉える思想的軸がない。僕は左派にそれをはっきりさせて欲しいと考えています。

 その点で民主党などは、もっと社会民主主義的立場を鮮明にすべきではないでしょうか。大きな政府に頼らず、自立した個人による平等な連帯が可能であると考えるなら、結局小泉改革の「小さな政府論」と同じ方向を向いてしまいます。

◆「小さな政府論」は間違っていると

 ネオリベラリズムは「小さな政府」を掲げながらも、「小さな権力」は主張しません。彼らは政府をスリム化すると言いながら、実は権力を肥大化しています。つまり権限は手放さずに責任だけ手放しているわけです。責任のアウトソーシングはどんどん進め、権限だけは握る構造です。汚染米を巡る農水省の対応や耐震偽装問題に象徴されるように、規制緩和の名の下に、本来行政が負うべき責任を民間に丸投げしている。

 この究極が「戦争の民営化」で、アメリカやイギリスでは現実に進められています。国は戦争を発動する巨大な権限を持っていながら、戦争犯罪や捕虜の虐待が起きれば国家として責任を取らずに戦争請負企業に押し付ける。これがネオリベ的な「小さな政府」の行き着く先です。にもかかわらずこのトリックを左派はなかなか見抜けなかった。「自民党をぶっ壊す」小泉改革の熱狂に踊らされてしまったわけです。

 ネオリベと左派が決定的に違うのは、自由と平等に関する考え方です。ネオリベが目指すのは、基本的には極大化した自由です。「平等の実現」については、場合によっては無視ないしは軽視する。自己責任や個人の自由を尊重する分、平等がないがしろにされるのです。逆に左派は「平等の実現」が最も重要な課題であり、それを阻害する権力を除去しようとする。同じく国家を批判する場合でも、ネオリベと左派は根本的に違うのです。

 この間こうした対立軸がなかなか見えなかった。だから左派は自分たちのスタンスをもう一度見つめ直すことが必要です。自らの政治哲学を再確認しないと、今後も小泉改革のようなまやかしに騙されてしまうでしょう。

<急激な改革に与しないのが保守>

◆保守も政治哲学を喪失しているのでは?

 そう思います。保守の側もスタンスが掘り崩されています。実際に小泉改革を通じて保守派はぜんぜん拡大していません。単にアンチ左翼が増えただけです。保守の論理も空洞化していると思います。

 本来右派は左派と違い反進歩主義ですよね。人間の理性や設計主義によって理想社会を作るのは不可能だと考えます。ゆえに本質的にはネオリベと異なるはずなのです。

 保守思想は基本的に懐疑主義的な人間観であり、人間の理性は不完全で、人間にはどうしても限界がある。その限界ある人間の作る社会も限界を持たざるを得ない。だから未来へ向け進歩的に理想社会を作るのは断念しようと考えます。

 では何に依拠して社会を維持するのか? 人間の人知を超えたものです。伝統、慣習、常識、言語的な連続性、民族など様々ですが、僕は究極的には神、宗教心だと思います。これが保守主義です。その根底には設計主義に対する批判があるので、急進的な革命に対しては断固として拒否し、漸進主義、緩やかな改革を支持するわけです。

 しかし保守は決して反動主義ではありません。なぜならば歴史のどの地点でも人間は完全であったためしはないと考えるからです。ですから「これが伝統だからすべて守れ」とはならない。いつでもどこでも社会は不完全だから、徐々に変化をすべきと考えるのです。時代状況にあわせた漸進的な改革こそ、保守の発想です。

 ところが保守を名乗る自民党は、「抜本的改革」を掲げて日本社会の根を抜くようなことをする。はっきりと保守主義者であることを標榜した安倍さんまでもが改革に熱狂し、これまでのシステムをぶっ壊すと公言した。保守とはなんなのかがまったく理解されていない。単なる反左翼です。

 このように右も左も根本的思想が揺らいでいる。僕には極めて危なっかしく見えます。これでは政治はポピュリズムに流れるだけです。政治哲学についてメタレベルの議論をしっかりやらないと、現実をきちんと批評できない。メタが空洞化するとベタなレベルもおかしくなる。結果として左右共にネオリベラリズムに引きずられているのが現状です。

<中間的共同体を根拠地へ>

◆左も右もネオリベとは相容れないはずですが

 そうですね。だから僕は、左右の対立構造を越えてネオリベラリズムに抵抗するべきだと思います。その際、「根拠地」という概念が大切だと考えています。

 ご存知のように、この概念は左翼が頻繁に使ってきました。もともとは毛沢東の言葉ですね。それを1950年代に谷川雁が流用しました。彼は炭鉱労働者たちの抵抗の場所であり、ネーション・ステートを越えて東アジアとの連帯を模索するアジアへの窓口として根拠地の概念を流用したのだと思います。パトリとも表現できますね。それを60年代、赤軍が国際根拠地論に使うわけですが、僕はもう一度谷川雁の概念に戻したい。

 本来左も右もコミューンやコミュニティをかなり重要視しているはずですが、現在はこの問題のほとんどを左派が担っているように思います。社会民主主義にとって、地方の人々の生活やコミュニティを守るために、国家がどのように再分配するのかは大きな課題です。また市民社会主義やアナーキズムは、国家とは違った平等で対等な人間同士の関係性が生まれるコミュニティやコミューンを非常に重要視します。柄谷行人さんは最近アソシエーションの重要性を唱え、中間団体こそが資本やネーション、国家を越え得ると述べています。

 ただし左派は、郷土や生まれ育った場所を絶対的アイデンティティにせよとは言いません。選択に自由があってしかるべきで、僕だって大阪で生まれ育ち、そのコミュニティを初めて離れて今札幌で生活しています。今や僕にとって様々な生活の根拠は札幌です。だからパトリと表現してもいいのですが、「郷土を愛しなさい」との脅迫概念になりかねないので左派は使わないのでしょう。左派は昔のような共同体的権力の中に埋没するのは理想ではないと考えているからでしょうが、この点は僕も同感です。

 谷川雁がサークル村で注目したのは、知識人と労働者などの間にある様々な「断面」です。男性と女性、資本家と労働者でも同様ですが、こうした人々の亀裂を超えた連帯を可能とする場所として根拠地を考えていたのではないでしょうか。それが全国様々な場所で連帯し緩やかな人々のネットワークを創造する。そんな未来を谷川雁さんや彼と一緒に活動した作家の森崎和江さんなどは考えた。僕は現代でも左派が応用できるプランだと思います。

 同時にこうした構想は、保守主義もまた持つべきだと思います。保守思想は共同体主義を中心的な核にします。人間の個性を規定しているのはコミュニティであり家族であり母語である、とするのが保守の基本的な考えです。だから近代的に作られたネーション・ステート=国家よりも自分の基盤となっているコミュニティを重視するわけです。

 この一番大切なものを崩そうとするのがネオリベですよね。何ものにも縛られない究極の自由を実現すべきと考える彼らにとって、コミュニティは邪魔者です。だからこそこれに抵抗するには、具体的な空間で生きている私たちの根拠地がとても大切だと思います。この根拠地をどう引き受けて、抑圧のない社会を構想できるのかが保守にも革新にも共通した課題であり、この点で左右は連帯できると思います。

『日本 根拠地からの問い』(毎日新聞社)

<つながりと承認が連帯を育てる>

◆根拠地を再創造するわけですね

 「第三の道」の提唱者アンソニー・ギデンズは、重要な概念として「再帰性」を強調しています。再帰性を簡単に言えば、あらゆるものを客体化した上で主体的に選んでいくあり方のことです。

 例えば僕自身は仏教徒ですが、20代に仏教徒になることを選びました。実家が熱心な仏教の家庭だったわけでもなく、ゆえに慣習として仏教徒になったのではありません。いったん仏教というものを客体化した上で、それを自分で主体的に選び取ったわけです。こうした選択は「再帰的」ということができるわけですが、これは根拠地を考えるうえでも重要です。

 僕は、近代社会における「伝統」も、同じように再帰的な存在なのだと思います。小林秀雄などのまともな保守主義者は、伝統は無条件に従うべきものではなく、何が伝統なのかを客体化した上でそれをどう受け止めるのかの主体性の問題だと指摘しています。そう考えると、左派にとっても同じ課題なはずです。

 あらゆる事には偶然性と必然性の両面があると思います。僕は札幌の街を偶然に、しかもある種の必然の中で選び取って生きています。札幌で仕事をすることになったのは、極めて偶然的な要素によっていますが、そこに根を下ろしてこれからも生活していこうと決めたことは、極めて主体的で意図的な選択です。僕は、札幌に来て2年数ヶ月ですが、ここで自分の意志でコミュニティと関わり、自分の足下によりまともな社会を作りたいと思っています。だから「生まれたところへ帰れ」と言いたいのではなく、各人の生きる場所を引き受ける意思の中に、重要な意味があると思うのです。

 再帰的な「故郷」の選び直しです。それを自覚的に選び取る主体性を僕たちは持たなくてはならないと強く思います。

◆生き方にかかわる問題ですね

 こんな風に考える背景には、秋葉原事件などに見られる、僕たちの世代特有のある種の不安定さがあります。僕は『論座』で赤木智弘さんが主張した「希望は戦争」論と同様、秋葉原事件の核心は承認問題だと思います。

 加藤智大容疑者の大きな動機は、ある種の強い屈辱感だったと思いますが、赤木さんの「希望は戦争」でも多く使われている言葉は「屈辱」です。一生懸命働いても月20万円も稼げない。「親の死に目が自分の死に目」なんて屈辱以外なにものでもないと。だったら戦争になり「負の平等」が実現して欲しい、と論じています。

 さらに彼はこんなことも言っている。食っていけなくなりホームレスになって自殺しても、「汚いやつが死んだ」と屈辱的な死になるだけ。しかし戦争で死ねば英霊として祀られる。つまり国家から承認を得られる。しかもかなり絶対的な承認が。どっちの方がいいか。それは靖国に祀られる方だ。

 彼はこれを経済問題から主張するのですが、実は自己の「承認」をめぐる問題を抜きには語れません。秋葉原事件も同じで、加藤容疑者が求めていたものは明らかに他者からの承認でした。彼はダガーナイフを買う際、わざわざ福井まで買いに行く。そしてお店に着き、自分から女性店員に青森出身だと話しかけている。一度店を出てもまた戻ってきて、今度は手袋を買いながら話をする。さらにまた戻ってきて、「タクシーはどこで乗れますか」と聞く。この帰路で、彼は携帯サイトに「人間と話すのっていいね」と書きこみしている。やはり人とのコミュニケーションを通じた存在の承認を、彼は渇望していたのだと思います。

 彼が事件を起こした引き金には、部分的には労働問題や経済問題があるかもしれない。しかし根っ子は、承認やアイデンティティにおける疎外感だと思います。これはマルクスの語った「疎外」とは違います。これをケアする人間関係をどう作っていけるのか。自分の生きる根拠地で承認を得られるような社会をどう作っていけるのかが重要です。

<異質な他者と共存する社会>

◆システムだけでは解決できない問題ですね

 もちろん経済問題で苦しんでいる人が多い訳ですから、プレカリアート運動はとても重要ですし、国家による富の再分配や構造改革の見直しなどは緊急の課題です。しかし、一方で経済やカネでは解決できない人もいます。僕はマルクスの言う下部構造・上部構造を信じていません。

 労働運動は、全ての問題を制度や社会に還元しようとする傾向がありますが、疎外の問題は唯物論では解決しないと思います。環境問題なども同様でしょう。生きづらさの根元には、人々のつながりや承認の問題がある。だからそれを支える根拠地づくりを僕は考えたいですね。

 ただし旧来型の共同体である町内会しかないとしたら駄目です。様々なやり方を考え、重層的なセーフティネットが必要です。サークル活動によって救われる人もいれば、ぜんぜん違うもので救われる人もいる。いろんなパターンがあり得ると思います。僕自身、今生きている札幌の狭い空間の中で、様々なセーフティネットをつくりながら人々をつないでいきたい。そして弱者を排除しないコミュニティを作りたいですね。

 一番警戒すべきは、共同体論でよく出てくる自警団みたいな話です。街中に監視カメラを配置し、見回りをして不審者がいたら通報しましょう。子どもの安全は自分たちで守ろう。そんなことばかりが強調される。

 その典型は石原慎太郎東京都知事です。彼は昨年の選挙で「安心と安全の都市作り」を公約に掲げました。現役を退官した自衛隊員と警察官を街中に配し、安全な街にすると。そうなると、ちょっと不審な動きをしているだけで通報され排除されてしまいます。彼は目障りなものは排除する、精神障害を持った人たちも施設にぶち込めばいいと短絡的に考えている。これは大変危険な発想です。

 僕の住んでいる札幌はすごくリベラルな街だと言われますが、実は強い排除が行われています。大半の地元の人は札幌にはホームレスがいないと思っていますが、実は150人前後もいます。しかしホームレスだとばれると排除されるので、ばれないような格好で暮らしているだけです。これは内面にまで染みこんだ権力です。同時に問題が不可視にされていく。

 こんな異質なものを認めないコミュニティづくりが全国で進んでいます。このままだとかなり危ない社会に向かうと危惧しています。そこで僕は、異質なものを可視化し、それを認める社会を作りたいと思い、『ビッグイッシュー』を札幌で販売する運動を立ち上げました。ホームレスの人たちと一緒に街頭にも立っています。

 今後地方分権が進み、基礎自治体に様々な問題が降りてきます。だからこそラディカルデモクラシーが目指す、顔の見える範囲での直接民主主義的な要素を育てる必要がある。 例えば熟議デモクラシー。様々な人が集い、様々な議論をして問題解決を図っていく。ハーバーマスの言う「生活世界」でのコミュニケーションから立ち上がってくる合意形成のプロセス作りですね。

 核心は他者との葛藤に耐えることです。異なる他者、彼・彼女と折り合いをつけ、どこを落としどころとするのか。そこで妥協しあってはじめて社会はよりましな方向に向かいます。ファナティックな感情を排し、他者との葛藤に耐えながら合意形成することが大切です。

 そもそもこうした考えは、保守思想の「売り」だったはずです。だからこそ彼らは理念で現実をなで切る左派を批判していたのです。保守もまた、ぜひその良き伝統を復活させて欲しいですね。

 コミュニティ、あるいは根拠地における熟議デモクラシーを通じて、なんとか新しい連帯の方向を模索していきたいですね。

PROFILE▼なかじま・たけし
1975年大阪生まれ。北海道大学公共政策大学院准教授。著書に『ヒンドゥー・ナショナリズム』(中公新書ラクレ)、『中村屋のボース』(白水社)、『ナショナリズムと宗教』(春風社)、『インドの時代』(新潮社)、『パール判事』(白水社)、『日本 根拠地からの問い』姜尚中との共著(毎日新聞社)など。

(1278号 2008年10月25日発行)