書評 『私の履歴書 人生越境ゲーム』(青木昌彦 日本経済新聞出版社)
越境ゲームの多元的ダイナミズム
自分史と時代史の融和世界へのいざない
自伝的なものを残すタイプとそうでないタイプがいるそうだ。自分史を時代史とその変遷のなかに主体的に位置づけ「著作(自伝)」として残すことは、たしかに勇気がいる営為とはいえ、読者に何らかの強いインパクトを与えるのではないか。理論経済学(制度理論研究)の分野で、世界の学界をリードし続ける青木昌彦氏による文字通りの履歴書が本書であり、「知的」魅力に満ちた作品(=ストーリー)である。
本書のタイトルは、著者の人生観を率直に宣言する、的を射た名称といえよう。「ゲーム」には〈獲物〉という意味も存在するが、その表題には、飽くなき好奇心としての〈獲物〉を探求する著者の不屈の挑戦精神なるものが暗黙裡に含意されてはいないか。「学問的」越境は「精神的」越境という葛藤や苦悩を伴いながら、自我=アイデンティティーを生成してゆく。「戦う」舞台を絶えず拡充してきた軌跡は決して平坦でも直線的でもなかったが、だからこそ稀にみる豊かな人生ドラマが生まれたのだ。
通常の人が思い描く「履歴書」以上の内容が本書には赤裸々に詳述されており、それゆえに、著者が積極的に牽引する専門分野に必ずしも通暁しておらずとも、何かに突き動かされるような内的衝動を禁じえない。「1つの越境ゲームは他のそれと絡み合い、全体として切れ目のない連鎖をなしているようだ」(250頁)という見解は、著者の「越境ゲーム」はこれからも続くことを示唆し、われわれを更に興奮させる。そう、本書には人をワクワクさせる高揚感・緊張感が濃密な形で凝縮されているのである。「知的」ベンチャーと称される7つの試みが本書全体を通じて語られているが、最初のベンチャーと位置づけられるブントとそれをめぐる活動家(姫岡玲治)としての一連の記述は興味深い。「あとがき」にあるように、学生時代の活動については公には完全に沈黙を守ってきたという事情もあるが、すべてはここから始まったといえるからだ。
ブントに関しては今なお賛否両論あるのは事実である。明確な信念・目的意識に依拠した活動=安保闘争であったとはいえ、それを果たして「知的」ベンチャーと銘打っていいものかどうか。ブント活動家としての側面に固執して本書を眺める読者は、もしかしたらそれを「血的」ベンチャーと揶揄するかもしれない。「ベンチャー精神+軽はずみ」という主観的な自己性格分析を鑑みれば、半世紀も前の活動は、ある意味で「若気の至り」に過ぎないのか。国家のあり方をめぐる政治ルールの様相を変化させるべく触媒効果としての役割を担ったと述懐する氏のブント観は、敗北感でなく爽快感ともいえる不可思議な心情を吐露するものだ。「あの時代の自分は歴史の奔流に押し流される、木の葉とまではいわないまでも流木のような存在だった」(232頁)という回想もなかなか意味深である。とはいえ、ベンチャー組織それ自体は、諸個人の自発性・自主性を尊重しその仲介機関でなければならないという思想は、著者の鮮明な組織哲学を反映し、それは以降のベンチャーに柔軟に活かされてゆくことに注視しておきたい。
更に留意すべきは、付録1『安保斗争』(1959年7月)にある、「資本家達は、自分の利益のために、資本家階級の支配の維持のためには、『民族』の利益をふみにじることをいとわない。が同様に、時と場合によっては、『民族の威信、民族の独立』を同じ階級支配の強化に利用することも躊躇しないのだ」(29頁)という文章が明示しているように、著者は物事の本質を鋭く炙り出す眼力を有しているということである。そうした慧眼ともいうべき眼力は、日本型経済システムの特殊性という既成認識のなかに、欧米に支配的な新古典派経済理論では十分に捉えきれない普遍的要素が内在しているのではないかという、学問上の斬新かつ逆説的な分析課題の発見とも見事に呼応する。あらゆる困難という大木を切り倒す強靭な「斧」である氏の抽象力・想像力(=創造力)は、「知的」ベンチャーに真正面から挑むための原動力といえるだろう。
スタンフォード大学において比較制度分析(通称CIA)の博士号取得のフィールドを立ち上げたことは有名だが(第4の「知的」ベンチャー)、制度の多様性を普遍的言語とされるゲーム理論を援用して解き明かすというアプローチに辿り着いた経緯、そうした手法がどのような潜在的な可能性を秘めているのか平易に解説されている。アローやハーヴィッツ、宇沢弘文そしてコルナイといった、世界を代表する経済学者との学問的交流を含む数々の特異な言説・公共空間の存在も、自らの思考様式を醸成・確立させてゆく比類なき貴重な客観的要因であったに違いない。今は亡き師のハーヴィッツによる「誘因両立的な経済メカニズムの設計」をめぐる主題を推進させる著者の取り組みは、特権的官僚国家に変質したソ連型集権的システムに対する批判を主要論点の1つとした、かつての「姫岡理論」と連動していないか。こうしてわれわれは、「13 近代経済学へ」にある、「社会の組織にかかわる最も基本的な問題意識と明晰な論理の結合、これこそ非論理的な党派的政治論争に倦いていた私の必要としていたものだった」(98頁)という、ブント運動後に到達しえた氏の根源的な学問観へと辿り着く。
著者が開拓した研究アプローチは、「越境」的であると同時に、経済学・政治学・社会学や法学、さらには認知科学といった社会科学諸分野を「架橋」するダイナミックな知的営為に他ならない。巻末の加藤創太氏との対談(付録4「社会科学は統合されていく」)も示唆に富む刺激的な内容だ。複数の「競合的」学派が共存することが歴史的にみて常態であるとすれば、多様な経済思想が収斂・単一化することはないであろうし、私自身、望ましいと考えていないが、人間社会を基層的に支える市場や貨幣、伝統・規範、ルールといった、古くて新しい考察対象へのいわば制度主義的アプローチの能力を最大限に発揮しうる方法論の再構築が鍵となることは確かだ。7つ目の「知的」ベンチャー「仮想制度研究所」(通称VCASI)の設立とその普及は、異分野の専門研究者の議論を活性化させるとともに、超学際的なサイバー・コミュニティ空間としての機能的特質を秘めるものとして今後の動向に注目したいプロジェクトである。
幾つかの複合的要因が重なり、著者は抽象的な数理経済学研究に従事することにある種の「迷い」が生じた時期があったそうだ(「20 経済学に迷い」)。社会科学統合問題の解決に向けて企図された比較制度分析は、社会科学としての経済学のあり方を深部から問い直すものである以上、とくに理論的・哲学的背景について、これからも学ぶ価値は大いにある。冷戦崩壊後、従来の「資本主義対社会主義」、「市場対計画」という二分法的な対立構図が瓦解し、比較「体制」から比較「制度」研究へとフィールドの比重がシフトしたことも、むろん念頭に置かれるべきだ。『コルナイ・ヤーノシュ自伝』の書評において綴られた記述と同様に、本書もまた、既存の学問体系との真摯な格闘を通じて独自のヴィジョンと概念的枠組みを彫琢してゆく、「創造的破壊」ともいうべきスリリングな私的学説史としての側面を有している。大胆かつ劇的な知的遍歴の醍醐味だ。
専門分野以外の著者の興味関心(歴史・文学・音楽・映像文化)は実に多彩で造詣も深い。「家族愛」も十分に伝わってくる。ユニークなエピソードも満載。総じて本書は秀逸な「時代」書といってよい。「経済理論の制度主義的転回」(ベルナール・シャバンス)をめぐる青木昌彦氏の多元的な「越境」ゲームは今後も精力的に営まれてゆくだろう。そのための洞察はどこまで深まり、視野はどこまで広がってゆくのか、氏の尽きることない「未知」への挑戦精神に多くの人が熱い眼差しを差し向けるに違いない。
(塚本恭章・つかもとやすあき 1974年生 東京大学大学院経済学研究科修了、経済学博士)

