書評『ケータイ小説的。“再ヤンキー化”時代の少女たち』(速水健朗著 原書房)
ケータイつながりが引き起こすコミュニケーションをめぐる葛藤
2007年の文芸書売り上げベスト3を知っているだろうか?
トップは美嘉の『恋空~切ナイ恋物語~』(200万部)、2位はメイの『赤い糸』(100万部)、3位はやはり美嘉の『君空』だ。3作品ともジャンルは「ケータイ小説」。同ジャンルは他にも2作ベスト10にランクインしており、半数を占める。世の中では今、ケータイ小説が大流行(はやり)なのだ。
ケータイ小説はかつて、その名の通り携帯電話サイトに書かれ、携帯で読まれるのが普通だった。Yoshiを名乗る人物が2000年、携帯サイト「ザブン」を開設し、『Deep Love アユの物語』を発表したのが先がけだ。それが今では書籍として出版され、書店の一角にコーナーが設けられるまでに成長した。
映画化もされ、昨年11月に新垣結衣の主演した『恋空』はたった1ヶ月で観客動員数が250万人、興行収入30億円を突破する大ヒット。8月からテレビドラマとしてもオンエアされている。
社会現象となっているケータイ小説ブームの背景を追ったのがこの本だ。
<ヤンキー復活がブームを作った>
「『小説をほとんど読んだことのない作者によって書かれ、小説をほとんど読んだことのない読者に読まれている』というケータイ小説に対する言説は、たしかにかなり当たっている」
こう著者が指摘するように、実際読んでみるとケータイ小説は文章・内容ともにかなり稚拙だ。にもかかわらず何故ここまで流行っているのか。理由は「リアル」さだという。本田透は著書『なぜケータイ小説は売れるのか』で、「ケータイ小説に描かれる七つの大罪」を挙げている。「売春、レイプ、妊娠、薬物、不治の病、自殺、真実の愛」。これがケータイ小説の定番アイテムなのだ。
しかしいくら女子中高生の風紀が乱れているとは言え、これがすべて彼女たちのリアルな日常であるはずはない。そこから著者はケータイ小説のルーツを、ヤンキー系女性雑誌の『ホットロード』や『ティーンズロード』、さらにはヤンキー系シンガー浜崎あゆみに求めている。ケータイつながりの少女たちのコミュニティは、ヤンキー文化を共通の参照先としている。だから少女たちは自らのコミュニティのノリで書かれるケータイ小説に「リアル」を感じるというわけだ。だからヤンキー文化・共同体は再生しているというのが著者の主張だ。
社会学者宮台真司によると、ヤンキーは町内会やPTAなどの地域的共同体への反発から作られるウラ共同体だが、いずれは町内会のオジサン・オバサンになる予備軍でもある。つまり「地域社会の最後の守り神」なのだ。だがこれが90年代中期以降、郊外の都市化で解体した。ヤンキーに取って代わったチーマーやコギャルは、地域共同体から流れ出した子どもたちであり、地域性の衰弱を体現していると宮台は指摘する。
これに対して著者は反論する。「宮台が指摘するように『大きな物語』が消滅し、共同体が解体され、郊外は流動化するという流れは否定できないものであるだろう。しかし、一方で新しい『地元つながり』が維持され、再生産されるベクトルも生まれてきている」。ここでベースにしているのは社会学者土井隆義の次のような分析だ。
「近年の若者たちの間では、地元から遠く離れた高校や大学に進学しても、あるいは就職したあとでも、小学校や中学校までの地元のつながりがそのまま保たれる傾向がある」。このコミュニティを維持する装置としてケータイは機能しているわけだ。
そこから著者は結論づける。「ケータイ小説の舞台となる郊外や、登場人物のメンタリティとは…『地元つながり』を形作っている『「東京に行かない」感覚』『電車に乗らない』感覚と深く結びついている。…これらを結ぶキーワードとは、ずばり『再ヤンキー化』『ヤンキーの聖地回復(レコンキスタ)』である」。
実際ケータイ小説のブームを支えているのは地方の書店で、東京での売れ行きは極端に少ない。ただし注意すべきは、ここでいうヤンキーは著者の再定義する「新しいヤンキー」であって、決して番長やスケバンの再来を意味しないことだ。イギリスの社会学者アンソニー・ギデンズの用語を借りるならば、「再帰的ヤンキー化」を通じたローカルコミュニティの再生とでもいうべき現象。
少女たちのサブカルチャーは、オモテ社会よりも一歩先に〈地方の時代〉を生み出しているということか。
<コミュニケーションは地獄なのか>
著者は、ケータイつながりに影響されて若者の恋愛観は変化しているとも分析している。
「『つながり』だけに価値が置かれ、濃密なコミュニケーションは失われ」、それがケータイ小説に描かれる恋愛観に色濃く反映しているらしい。
ケータイつながりは四六時中相手を束縛することが可能だ。「手紙が依存症になりにくいのに比べ、携帯メールが依存症を起こしやすいのは、携帯電話というツールが『身体的な感覚』をともなう、『触覚器官』であるからだ」(土井)。そこでつながりはアディクション(嗜癖、中毒)にまで発展する。
この「つながり」への執着は、ギデンズが『親密性の変容』でいう「純粋な関係」の極端な一形態だとも考えられる。「純粋な関係」とは、前近代的な社会的偏見や因習をうち破って生み出された近代的「ロマンティック・ラブ」のことだ。しかしうち破ってしまった社会的偏見や因習は、愛の意味を支える大きな物語でもあった。それを破壊したがゆえに自らをとりまくコンテクストを脱色させた恋人同士は、孤立した関係で二人の〈セカイ〉を紡ぎ出すしかない。愛の意味の追求は自己言及となって空転をはじめ、〈世界〉はそのつっかえ棒を与えてくれない。
その結果、束縛と自己承認を求めあう心の衝突によって、山嵐(ハリネズミ)のジレンマのリスクが増大する。「コミュニケーションという地獄」にはまっていくのだ。だからケータイ小説にはデートDV(婚姻関係のない間柄での暴力)はつきものとされる。そしてコミュニケーションの壁は超えられることなく、相手が壁と共に消える(死ぬ)ことによって暴力的葛藤が美しい恋物語へと昇華されていく。このあたりも「コミュニケーションという地獄」に敏感な少女たちが、ケータイ小説に「リアル」さを感じる根拠なのだろう。
本書はなかなか的確にケータイ小説の背景を抉りだし、それを通じて今時のティーンエージャーの生態を浮かび上がらせている。同時にそこでなされるローカルコミュニティをめぐる分析は、興味深い視点を提供してくれる。コミュニケーションをめぐる葛藤もこの時代を生きる者にとっては共通の課題だ。軽いノリながらも今の日本を知る上で有用な1冊だろう。
ところで、ケータイ小説は文学の最後のアウラが消失した後に咲いたあだ花なのだろうか? それとも何か新たなものが立ち上がる予兆なのだろうか? 私としては後者の可能性に一縷の望みを託したい。
(虎田五郎)
