書評『文化=政治』 毛利嘉孝・著(月曜社) 今そこにある抵抗運動
突如集まってきた人々によって、道路が封鎖される。通りを埋め尽くした若者たちは、音楽をガンガンかけながら踊りまくる。交差点には子どものための砂場がつくられ、飲み物や食べ物が振る舞われる。横断幕・のぼりがはためき、やぐらが立てられる。人々はめいめい勝手に走り回り、そばの警官隊は右往左往するばかり。当然交通は全面ストップだ。
これはイギリス・ロンドンで行われたリクレイム・ザ・ストリート(RTS)の様子だ。RTSはストリートを自動車から取り戻せと主張している。You Tubeにアップされている映像を見ると、皆楽しそうでわくわくしてくる。
RTSのゲリラ的ストリート占拠は全世界に広がった。形はちがえど同じような運動はあちこちで起きている。従来の左翼の政治運動にはないあり方だ。 日本でもイラク反戦の際に、サウンドデモが登場した。その後、小泉改革で貧困層が広がる中、若い人が「反貧困」を訴えるデモが起こっている。こうした運動の舞台となるのはいつでも路上、ストリートである。
著者の毛利嘉孝はRTSについて次のように語る。
「彼らにとって、ストリートとは単なる交通や移動の空間ではない。むしろ問題は、本来は多様な人間生活の営みの場が、単なる交通や移動の空間として切り詰められていることである。それは、国家と個人、公的な空間と私的な空間が交錯し、互いにせめぎあう政治的な場所であるべきなのだ」
道路が政治的な場所だというのはデモに行けばすぐに分かる。道路使用許可をとっても、デモ隊はたった1車線に押し込まれ、長い隊列もつくれず、そばにいる警察がつねに圧迫してくる。警察車両の拡声器がワーワーとうるさい。時には警官隊がデモ隊を取り囲み、飛び入り参加ができないようにしている。
そして優先されるのは自動車のスムーズな通行だ。デモに対して「渋滞するから迷惑なんじゃない」といった声も聞く。しかし東京の首都高速は慢性的渋滞だ。多すぎる車によって交通が麻痺している。
一方歩行者天国は、いまや楽器を奏でることも禁止。人はただ歩いて移動し、店のショーウインドを眺めることだけ。少しでも集まってビラを配ればすぐに警察がとんでくる。監視カメラはそこら中に設置され、なんだか非常に窮屈だ。
9・11以降、世界中でテロ対策と称した監視が強まっている。異質なものは排除と監視の対象となった。同時に、メディアと企業によって作り出される商品社会・消費社会が生活をおおいつくしている。情報化、ポスト工業化社会の中で、目に見えない形で権力が我々の生活や思考を浸食している。グローバル化は一握りの金持ちと、膨大な貧困層を生み出し、環境を破壊している。
先のRTSのような運動の在り方はDIY(Do It Yourself)文化ともよばれるが、これは現代の閉塞した社会状況に立ち向かう1つの方法だ。
商業化された既存の娯楽産業に依存せず、自分たちでつくりだす文化。それは一見すると享楽的で楽観的で自己中心的に見えるかもしれないが、「どうしようもなく袋小路に追い込まれている現状に対して取られた、おそらく唯一の可能な戦術」なのである。
新しい運動にはもろい面もあるが、ゆるやかに繋がり、消えてもまた出てくる、そんなしぶとさがある。RTSは今や完全に警察によっておさえこまれているという。しかしそのスタイルは形を変えて継承されている。
新しい社会運動は、「問題を解決するための一時的な戦いではなく、永遠に終わることのない戦闘」「現在の時制の真っ直中に、あるかないかの革命的な契機をなんとか見出してはつなぎ合わせていくような試み」だ。新しい運動の広がりに共感と希望を感じる。
(温井立央)
