映評『いのちの食べかた』(ニコラウス・ゲイハルター監督作品) 人間は食物連鎖の頂点にいるが
食物をめぐるあまりにショッキングな現実
野菜や果物、魚肉から鶏、豚、牛肉まで。その大量生産の現場を淡々と映し出すドキュメンタリー。撮影場所は主にヨーロッパの国々だ。作品にはナレーションもテロップも一切無いが、何をしている場面かは全て理解できるようになっている。
驚かされるのは生産規模の大きさと徹底した効率化の凄さ。私の想像を完全に超えていた。圧巻なのはブロイラー工場だ。野球場が何個も入りそうな広大な鶏舎で身動きできないほど過密飼育されたブロイラーを「収穫」する。まるで巨大な掃除機のような重機で吸い上げられていく鳥たちは、私にはもはや「生きもの」に見えなかった。
この作品には押し付けがましい主張は無い。観る者がそれぞれの立場で「感じてくれ」というメッセージがあるだけだ。だが多くの人は食物の大量生産の現場の迫力に圧倒され、「このままで良いはずはない」と直感するのではないか。
自らの蹄で一度も土を踏むことなく、コンクリートの豚舎で肥らされ屠殺される豚。狭い牛舎で薬漬けのような飼料を食わされ、恐怖におののきながら電気銃で失神させられる牛たち。
豚や牛たちも当然持っているであろう「感情」を完全に無視する冷淡、残酷を目の当たりにして生まれる絶望的な悲しみや怒りの感情。それは同じ哺乳類である人間にとって押さえつけることのできない感情だと思う。
勿論私は、彼らを処理する現場の労働者に怒っているわけではない。そのように大量生産された食品を散々消費してきた私自身、何ら「免罪」される資格はない。されど、いくら人間が食物連鎖の頂点に立つとは言え、他種生物の利用の仕方にも許される限度があると感じた。
私は地方都市で牛乳を販売し、生計を立てている。言わば酪農の世界の「はしくれ」だ。契約牧場で飼育されるホルスタインはわずか20頭。零細牧場だが、牛という命を徹底的に利用し消費する意味では、この映画に登場する大規模酪農家と根本的な変わりはない。
生後2年のメスのホルスタインに人工的に種付け(アメリカ産)をし、後は毎年、人工授精→出産→搾乳の繰り返し。彼女らは自分が産んだ仔牛と過ごす時間もなく、乳は全て人間に搾られ、乳が出なくなれば屠畜場に送られ肉となる。
だが全て同じことをするだけでは、大規模酪農の安価な牛乳とは勝負にならない。零細だからこそ出来る方法で製品に付加価値をつける。それは「丁寧」な飼育だ。牛の数を20頭に絞っているは、全ての牛に目が届くギリギリの数だから。牧場主は体調が優れない牛の餌を日によって変えてみたり、ストレスの溜まった牛を運動させたり、輸入配合飼料だけでなく休耕田で育てた牧草を与えてみたりと細かい世話をする。
もちろん「動物愛護」の観点からではない。丁寧に飼育することによって生乳の品質が大幅に上がるからだ。大規模酪農では得られない「品質」を付加価値としてはじめて、私たちの牛乳は高く売れる。
顧客を増やすため、季節ごとに牧場近辺の自然や牛たちの様子を作文にし写真を加え、牛乳とともに消費者に配る。以前は消費者とともに牧場を訪ねるツアーも行っていた。消費者は牛の飼料や飼育環境を目で確かめ、安心感を強める。その消費者の口コミで新たな消費者を獲得できる。こうしてコスト競争では絶対に勝ち目が無い大規模酪農とは別のやり方で、何とか牛乳販売を続けている。
命を利用しつくすことには変わらないが、その方法が少し違うのだ。ただその少しの違いが人間にツケとして返ってくるようになった。野菜の残留農薬、狂牛病や鳥インフルエンザの人間への感染など。これ以上の食品生産の大規模化・効率化が良い結果を生まないことはすでに明らかなのだ。
たとえ独りよがりのきれい事だとしても、私たちの牧場で一生を送る牛たちは大規模酪農家に飼われる牛たちより「マシ」な一生を送ったと思いたい。「他種生物との共生」を語るとき、「経済動物」と呼ばれる鶏・豚・牛たちとの共生の方向についても考えを及ばすべきだと思う。
(牛乳販売業・山上達也)
