日本でも他人事ではなくなってきた

 病院に入院していても、医療費が払えないと道路に捨てられる。一々保険会社に電話して了承を得ないと救急車にも乗れない。たとえ保険に入っていても、いざとなったら書類の不備を指摘され、既往症が未記入だと文句をつけられて保険金が下りない。

 これは何処の国の話だろうか? 絶対的貧困にあえぐアフリカのシエラレオネやスーダンの話ではない。世界で最も富める国、アメリカの話だ。マイケル・ムーア監督作品『シッコ』は、これらアメリカの医療の実態を赤裸々に暴き出す。

映画『シッコ』

 これまでのムーアの作品とは違い、『ボーリング・フォー・コロンバイン』のチャールストン・ヘストン、『華氏911』でのブッシュ大統領のような象徴的悪役は出てこない。少年によるライフル乱射事件や大量殺戮テロなどのセンセーショナルな非日常シーンもない。

 描かれているのは、ありきたりの日常生活で傷つき、悩み、苦悩する普通の人々。地味な分だけ上映している映画館も少ない。だが、「明日はわが身」と切実に訴えてくる作品だ。

<人の命よりお金が大事なシッコな人々>

アメリカには、全国民を対象にした健康保険は存在しない。国民一人一人が民間の保険会社と契約する。そして契約した保険会社の指定する病院や医師に診察を受けなければ保険金はおりない。

 ここまではまあいいとしよう。問題は、定められた病院や医師を受診しても保険金が下りないことだ。私はこの映画を観て、もしアメリカへ行く場合には日本で医療保険込みの旅行保険に入っておく必要があると痛感した。

 なんと保険会社から指定された医師は、なるべく診察を拒否するか、診察は保険の対象外なことを患者に告げるように指導されている。保険会社はできるだけ保険金を支払いたくないからだが、診察拒否の割合は平均10%。なけなしのお金をつぎ込み保険に入っても、10人に1人は診察してもらえないのだ。

 病院でもできるだけ患者に保険を使わせない医者の方が給料が上がり、地位も上がるシステムになっている。治療を行なえば助かるかもしれない病人でも平気で放置されるのだ。若くしてガンと診断されても、「若い人にはガンは発生しない」と一蹴されて保険金は支払われない。効果のある治療方法があっても、「まだその処方は実験段階」との理由で保険適用外となる。

 映画では、ガンを患い骨髄移植をすれば助かる可能性のある若者の苦しみが描かれている。結局保険適用を拒否され移植手術ができない彼は、結婚したばかりの妻と赤ちゃんを残して死んでしまう。

 治療拒否をした医者や保険の窓口担当者、書類の不備を探すスペシャリストたちは口々に「こんな非人間的な仕事はもうしたくない」と訴えるが現実は変わらない。日本では保険金が下りないと社会問題になるが、アメリカでは下りないほうが普通なのだ。

 ちなみに「sicko」とは、病気=sickをもじったスラングで、病人、変人を意味する。アメリカの医療制度に関わっている人々こそが「sicko」なのだ。

 ムーアは各国の医療制度を比較するために、イギリス、カナダ、フランスを取材する。これらの国々では病気になって医療機関を利用してもほとんど費用はかからない。イギリスの場合、医者の給料は患者の状態を改善するほど増えるシステムで、アメリカとはまったく逆だ。

 カナダ、イギリス、フランスでは医療はほぼ無償で受けられるのが常識だ。医療費が国家財政を圧迫し、医者不足などの問題を抱えていても、右左の政治的立場に関係なくそれが国民的コンセンサスとなっている。当然にもこれらの国々は皆、アメリカよりも平均寿命が長い。

 イギリス労働党の重鎮トニー・ベンは、「イギリスでこの制度がなくなれば革命が起きる」と語る。そして、「人々を支配するために健康、自信、教育をあたえてはダメ。人々を絶望に落としていれば、政府の言うことは何でも聞く」と考えるのがアメリカだと痛烈に批判している。フランスに住むアメリカ人は、政府が人々の団結力を恐れているから国民皆保険制度が維持されているのだと語るが、イギリス本国の植民地支配から独立したアメリカ建国の理念はどうなったのか。

 ムーアが取材を進めるほどにアメリカン・ドリームは崩壊し、自由でも公正でもないアメリカの姿が浮かび上がる。

<国民皆保険制度は共産主義だって!?>

 映画の後半、ムーアはキューバの米軍グァンタナモ基地へ向かう。アルカイダなどのテロリストが収容され拷問が問題となった基地だが、実は医療設備が整い、囚人は無料で治療を受けられる。

 ムーアは、9・11テロの際に活躍した救急隊員と共に医療ツアーを企画した。世界貿易センタービルの崩壊現場では、被害者救出のために不眠不休の救助作業が行われた。そしてビル崩壊に伴って発生した粉塵、化学物質、アスベストなどを吸い込んだ隊員の多くは体を壊した。

 しかし彼らの治療には保険は効かず、国も自治体も面倒をみてくれない。彼らは藁をもすがる気持ちでムーアと共にボートでグァンタナモ基地に向かったが、米軍は頑として受入れを拒否した。

 そこでムーアたちはそのままキューバに入国し、病院で治療を要求する。するとキューバの病院はまるで当然のことのように治療を引き受けてくれた。キューバでは医療費がほぼ無償だ。アメリカでは120ドルもした薬が6セントで買える。請求額を聞いた女性隊員は耳を疑い、もう一度聞き返し、絶句して涙した。

 ちなみに映画では取り上げていないが、イラクとアフガニスタンには国民全員が入れる健康保険制度があるが、原資はアメリカのお金だ。

http://d.hatena.ne.jp/potasiumch/20070830#1188463551  
http://en.wikipedia.org/wiki/Image:WORLDHEALTH2.png を参照

 占領した国を支配するためにはわざわざ国民皆保険制度を提供しているのに、肝心の自国民はほったらかしなのである。

 アメリカの保守派は伝統的に、国民皆保険制度は共産主義だと批判してきた。国民から医師の選択肢を奪い、国家統制の医療制度になるというのが理由だ。だとすれば、カナダ、イギリス、フランス、日本などはすべて共産主義国家なのか? とんでもない言いがかりだ。

 民主党議員のヒラリー・クリントンは、90年代前半に国民皆保険制度を作ろうとした。しかし保険会社の強力なロビー活動でつぶされた。次期大統領選を目指すヒラリーは今年9月、再び国民皆保険制度導入を公約として発表。アメリカでは医療費の上昇を背景に無保険者は6年連続で増加し、昨年は前年比5%増の約4700万人に上った。人口の16%を占め、これ以上の医療制度崩壊を放置できないところにまで至っている。

 幸いなことに日本には国民健康保険制度があり、幅広く保険が適用されている。しかし、格差の進行と共に健康保険の滞納は増え、無保険のために医療機関を利用できない人々は増加する一方だ。

 映画のなかでフランスで子育てしながら働いているアメリカ人女性は、「フランスでは出産、育児の面で優遇されている。自分の両親は死ぬほど働いているがこんないい暮らしはしていない」とアメリカを嘆いていたが、日本も決して他人事ではないと痛感した。

      (蛭田勢二)

(1254号 2007年10月25日発行)