書評『制裁論を超えて―朝鮮半島と日本の〈平和〉を紡ぐ』(中野憲志・編 藤岡恵美子、LEE Heeja、金朋央、宋勝哉、寺西澄子、越田清和、中野憲志・著 新評論)
「北朝鮮問題」を避けてアジアの平和は創れない
今も昔も国内矛盾は差別と排外主義へ向かう
「北朝鮮を叩く番組は視聴率がとれるから、どんどん企画が通るんです」。ある民放のテレビ番組製作者の話だ。
こうして私たちは日々、マスメディアから流される北朝鮮の負のイメージにさらされる。「核実験」「拉致」「独裁国家」「餓え」「喜び組」などなど。確かに否定しがたい事実もあるが、多くは偏った情報ばかり。恐怖とさげすみ・嘲笑が入り混じったイメージだ。
その結果、北朝鮮問題を冷静に考えようと指摘すれば、「親北朝鮮派」とみなされ批判される。「北朝鮮は許せない。お前は拉致を許すのか」「北朝鮮の肩をもつのは日本人ではない」「あなた朝鮮人?」といった具合だ。北朝鮮=絶対悪の構図が蔓延する中で、憎しみ・蔑みは在日朝鮮・韓国人にも向けられる。
<拉致と核問題を考える視点>
今一度、拉致と核問題を歴史の文脈に置いてきちんと考えてみる必要があるのではないか。
本書では4人の日本人と3人の在日コリアンがさまざまな角度から、「北朝鮮問題」を考える視点を提供する。先日、本書の発刊を記念して大阪で集いがあった。著者の4人(中野憲志・藤岡美恵子・LEE Heeja・宋勝哉)が執筆に至った経緯と問題意識を語り、その後参加者を交えての討論会が行われた。
編著者の中野憲志さんは「日本のNGOは北朝鮮バッシングに何も言わない。排外主義的な大和民族イデオロギーに対して、戦後平和勢力はきちんと対抗することができなかった」と批判。
藤岡美恵子さんは、「植民地支配の問題は過去のことではなく現在にも通じる」と語り、行政の進める「多文化共生」政策は植民地支配の歴史を省みない新たな同化政策だと訴える。本の中では、植民地支配のための思想・イデオロギーである「野蛮」と「文明」の構図が北朝鮮バッシングにも現れていると指摘。相手を一方的に否定することで優越感をもたらす構図がいまだに続いていることを明らかにする。
在日コリアン3世の宋勝哉(そん・すんじぇ)さんは、韓国の民主化運動に関わった経緯や在日1世の祖母の話を語る。「在日にとっては国家とどう向き合うのかが常に大きな問題であった」。日本に生まれ、差別された在日コリアンにとっては朝鮮半島の国こそが希望であり、よりどころだった。しかし一方で在日が韓国・北朝鮮と垂直に結びつくことは厳しいと指摘する。
宋さんは、韓国で提唱されている北朝鮮への「内在的接近」と「内在的・批判的接近」を本の中で紹介している。韓国では冷戦と南北分断の下、反共が国是とされ、人々の中にも反共意識が形成された。その固定観念を克服する試みが「内在的接近」であった。その後、無批判の「親北朝鮮意識」をも乗り越えようと「内在的・批判的接近」が提唱された。これらは国家の枠にとらわれない思考方法だ。
宋さんは、日本の北朝鮮への見方を「内在的接近」に変えることで、植民地主義を克服することを説く。同時に北朝鮮の「国の自主権と民族の尊厳」の当為性を認める一方で、朝鮮民族の単一性・優秀性を強調する在り方にも疑義を呈する。国家に向き合い、国家を越境しようとするからこそ持てる視点だ。
北朝鮮の飢えた子どもたちへの支援を続けると同時に、いわゆる「脱北者」についても政治的脈絡を超えて支援できないか模索していると語っていた。
<バッシングはコンプレックスの裏返し>
在日韓国人2世のLEE Heeja(い・ひじゃ)さんは、自分が参加したNGOで在日コリアンの問題を理解しようとしない日本人スタッフの姿を見て疑問を感じたと語る。LEEさんは本書の中で、戦後日本が植民地の歴史を忘却していく様子を在日の立場から告発する。「たしかに私は戦闘状態のない、植民地を放棄した日本に生まれ育った。それでも、私は植民地支配――戦前と変わらない排除と抑圧――を実感しながら生きてきた」。
著者の話の後、参加者との討論となった。ニートであると自己紹介した20代の日本人男性は、率直に問題意識を語った。
「我々の世代には根底的に中国・韓国に対する恐怖がある。日本の技術をどんどん中国・韓国が真似て、ゆくゆくは日本を追い越す。アジアで優位にいた日本が転落していくのではないかと感じている。学歴社会の中で、能力がない、ダメなやつだと言われてきた人ほどコンプレックスが強い。そのコンプレックスを解消するために北朝鮮バッシングに過剰に反応する。バッシングはアカンと言われても他に抜け道がない」
30代の日本人女性は別の視点から問題提起した。
「私たちの世代は主体的に社会に関わることがなかったので、自分が社会の中で役立ちたいと強く感じる。自分が社会的なアクションを起こすことで認められたい。だからこそNGOやボランティアにも関わるのであって、政治的に『正しい答え』には余り関心がない。問題をこう考えるべきではないかと言われても心には届かない」
こうした提起を受けて、日本の学校に通っていた在日コリアン青年連合(KEY)の女性は次のように語った。
「私も日本の若い人の実感がよく分かる。日本の学校教育の弊害は常々感じてきた。グローバリズムと競争社会の中で、社会的に認められない人が増え、人よりも優位に立ちたいという気持ちとナショナリズムが結びつく。自分が一番でなくてはならないという考え方から解き放たれることが必要」「私もコンプレックスの問題から在日問題に関わるようになった。コンプレックスを突きつめて考えることや他者との出会いによって視点が変わる」
討論を聞いていたLEEさんは「日本人と在日コリアンがこのような形で討論することは、私たちの世代では考えられない」と隔世の感を持つと同時に、新たな可能性が出てきたことを歓迎していた。
しかし参加者の一人、大阪の小学校で非常勤講師を勤める在日コリアン3世の女性の訴えは切実だった。核実験の後、文部省から各学校へ「北朝鮮は危険な国であることを認識させなさい」との通達が届く。本名で通う子どもがいじめにあう。教師の中には在日の問題を理解せず、「日本が気に入らなかったら帰れ」という者もいる等々。彼女は、そんな一言一言に反論する。答えを言うのではなく、相手が自分で考えるように促すのだ。
私は参加者の討論を聞いて、ナショナリズムや排外主義は、人々の感情に直に訴えてくるものだと感じた。人は自分の存在が不安定になれば何かよりどころを求める。境界をつくり自分の存在を安定させようとする。宗教的世界が崩壊した近代において、よりどころになるのが国家であり民族だった。人がそこに傾斜することは理屈で否定できない面がある。
ましてや今の若者は仕事や将来への不安、あるいは無力感が強くある。国家も地方も多額の借金を抱え、民営化が進み、企業が人を道具のように使い捨てるのが日本の現状だ。未来に展望がなければ他者の痛みを感じる余裕すらなくなる。
まさに私たちは市場原理主義の下、個々に分断されているのだ。だから何かとつながりたい、何か誇らしいものが欲しいと思った時、「高度経済成長した先進国日本」あるいは過去の「アメリカと闘った戦前の日本」と直結してしまうのだろう。
大きな普遍的真理ではなく、国家や原理主義にもからめとられず、異なる者同士が共存していくにはどうしたらいいのか。
宋さんは「今、在日の視点が面白い」と言っていた。より多くの分野の人間が横断的に集う時、様々な視点が出てくる。そこで新たな発見もあるはずだ。外からの視点にさらされることで、あるいは対話する中で自分の立っている位置が見えてくるかもしれない。
『制裁論を超えて』は「日本」という枠組みに捕らわれない見方を提供する。性急に答えを出すのではなく、じっくり考えてみたい。そんな方に是非ご一読願いたい。
(沼田昭介)
