映評『ヒロシマ ナガサキ』(スティーヴン・オカザキ監督作品)
今ほど被爆者の体験が重要な意味を持つ時代はない
広島、長崎の原爆被害についての記録、映像、小説などはこれまでもあった。だがスティーヴン・オカザキ監督の映画『ヒロシマ ナガサキ』(原題『WHITE LIGHT・BLACK RAIN』)は、そうした作品群のなかでも独自の位置をもつ作品だ。映画は、1931年日本の満州事変から中国大陸への侵略についてのアメリカのニュース映像からはじまる。
続いて1941年の真珠湾攻撃。ルーズベルト大統領の宣戦布告宣言の映像が流れる。その後、8月6日と9日、広島と長崎に原子爆弾投下というテロップ。それは戦争勝利の歓喜に沸き返るアメリカ国民の姿へと連なっていく。
突然、東京の雑踏を歩く若者たちの姿に画面は変わる。1945年の8月6日に何が起きたかという質問にわからないと答える若者たち。歴史は風化したのか?
原爆を正当化するアメリカ。原爆の歴史が忘れられていく日本。この映画はそこが起点となっている。
映画は被爆者へのインタビューが中心となって構成される。在校生620人の学校の唯一の生き残りの女性。『はだしのゲン』の中沢啓治さん。長崎の施設で生活していたふたりの女性。韓国人被爆者の女性。医者の肥田舜太郎さんなど広島、長崎14人の被爆者の体験が語られる。一方で原爆投下時にエノラ・ゲイや観測機に搭乗していた4人のアメリカ人のインタビューも映される。
被爆体験が生々しく語られ、被爆者の現在と被爆当時の映像が交互に映される。生存者が描いた絵は地獄絵図そのものだ。数え切れない無惨な死体。目の前で焼け焦げて死んでいく肉親。死んだ人々の悲劇はもちろんのこと、生き残った人々にとっても被爆者としての人生はあまりにも過酷だ。
エノラ・ゲイに搭乗したアメリカ人の発言はアンビバレントな内容である。「戦争を終わらせるために原爆を使ったんだ。同情も後悔も全くない」「爆弾は設計通りに爆発して、戦争の常で人が殺された」と語る。だが同時に次のようなことも言う。
「我々はパンドラの箱を開けた。世界はこれから核戦争の可能性と共に生きていくしかない」「何人か集まると、必ずバカな奴がこう言う。『イラクに原爆落としゃいいんだ』。核兵器が何なのかまるで分かっちゃいない。分かったらいえないことだ」
日本では現職の大臣が原爆投下を「しょうがない」と言い、「核武装の議論はあっていい」という暴言を吐く。歴史の風化は世代を越えて広がっている。日本の戦後の原点、ヒロシマ・ナガサキの記憶を継承していくことは今を生きる者の責務だ。「恒久の平和を念願」(憲法前文)する国民の世界に対する責任でもある。
このことをアメリカの原爆肯定論への批判とともにスティーヴン・オカザキ監督は映画を通じて訴えている。だがそのメッセージの表出は彼の作品の中ではどこまでも抑制されている。映画はあくまでも事実のみを追っていく。ナレーションもない。だがそのストイックな映像の進展は言語化されたメッセージ以上のメッセージを観る者につきつける。「これでいいのか日本!これでいのかアメリカ!」と。
原爆は現在進行形の問題だ。核兵器の拡散という事実。すでに湾岸戦争やイラク戦争では、劣化ウラン弾が使用され、被害に苦しむ人々がいる。こうした現実に向き合うためにも、この映画はぜひ多くの人に観てもらいたい。
オカザキ監督はパンフレットの中でいみじくも次のように述べている。
「核兵器の脅威は現実のものであり、恐怖に満ちています。今ほど被爆者の体験が重要な意味を持つ時代はないのです」
(宮沢 将司)
