国家主義にからめとられないネットワークを模索したい

グローバリゼーションの進展は世界中で様々な矛盾を生み出し、同時にこれに反発して宗教的な原理主義が噴出している。グローバリゼーションは世界に何をもたらし、その先にいったい何が待っているのだろうか。国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)研究員の鈴木謙介さんに聞いた。

 
鈴木謙介さん

<新自由主義は原理主義と表裏一体>

◆世界中で原理主義の台頭が目立ちますが

 この10年くらいの間にいくつかの問題が目に見えて台頭してきました。ポスト冷戦体制がある程度固まってきた後で、いったい誰がどういうパワーを持って世界を動かしているのかという問題がかなりクリアーになってきました。

 その中のエージェントを三つあげるとすると、一つはアメリカという国家がアクターです。もう一つが市場原理主義という、どちらかというと企業がアクターになっているもの。そして反グローバリズムに代表される民衆が担い手になっているような国際的なネットワーク。この三つのアクター間での綱引きでいろいろな事が動いていることがだいたい分かってきました。

 そのなかで原理主義(ファンダメンタリズム)という言葉をどこに当てはめるかということですが、普通私たちは、一般的にイスラム原理主義のことを想像しますね。ですがこの言葉は宗教原理主義だけに限りません。市場原理主義というくらいで、市場にも原理主義があります。アメリカの価値観や国是に対する原理主義的な発想というのも非常に強い。東アジアで高まっていると言われているナショナリズムの問題にしても、偏狭さという点では原理主義に通じるものがあるかもしれません。

 そもそもグローバリゼーションにはそういうことを引き起こす力があります。グローバリゼーションとはヒトとモノとカネの流動性が世界的に高まる現象です。いろいろなものが縦横無尽に移動していくことが出来るようになると、自分と違う立場の人間、異質な存在との交流、あるいは価値の比較などが生じます。

 そのようにして生じた比較の中から自分たちがいったい何者なのかというアイデンティティへの問いが生まれて来ざるを得ません。その問いに対する答の一つが原理主義であると言えます。これは「第三の道」の唱道者だった、アンソニー・ギデンズも指摘していたことでした。

 そもそも原理主義がどこから出てきたかというと、アメリカのキリスト教原理主義から出てきた言葉です。1910年から1915年の間に刊行された自由主義神学を批判する12巻の伝道文書シリーズ「ザ・ファンダメンタルズ」という本が出版されてからのことです。自分の依ってたつ立場を自由に選べるアメリカという国だからこそ、「根本的な価値は自由に選ばれたら困るだろう」という人間が出てくる。

 今、世界的に起きている原理主義的な現象というのも同じメカニズムです。ネオリベラリズムが世界を覆う中で、何でもあなたの好きに選んでいいですよという状況になり、「何でも好きに選んでいいわけないだろう」という反発が起こる。その根拠付けのロジックとして出てきているものが原理主義です。

 だから別に、特定の宗教とか土地とかに縛られる必要は無いわけです。いろいろな形の原理主義が世界中に広がっています。例えばイスラム原理主義のテロリストにしたところで、自分たちの主張をビデオにしてCDロムに焼き、アフガンの山岳地帯を超えてインドあたりから世界中にばらまいていたりしています。あるいはインターネットを通じてアメリカに直接入ったりしている。

 こういうふうに原理主義といえども世界的に繋がるためのネットワークを築きやすい状況になっています。しかも、ネットワークが広がっているにもかかわらず、そこに入れる人間は、自分たちの主張に同意する人ばかりになる。これが今のグローバルな状況での原理主義の姿といえます。

 そういう横への繋がりというものがネット上で、見えない原理主義ネットワークのようなものとして広がっていくとどうなるかというと、ネットに対する規制が強くなります。今、世界中のあらゆる国でインターネットの発言やコンテンツに対して規制やフィルタリングなどを行って監視しようとする動きが非常に強くなっている。

 有名なのはアメリカのネット監視システムですが、先日、日本でもネットでの発言を監視の対象にしようという研究会の報告が上がりました。この動きもある意味原理主義的な感じがします。つまり、いいか悪いかを一元的に決めて悪いものは全部排除してしまえというシステムなのですから。

<〈帝国〉がマルチチュードを生み出す>

◆グローバリズムのポジティブな側面はありますか

 大体二つぐらいあげられますね。一つは、これをポジティブと言えるか分かりませんが、世界的なニューリッチの台頭です。特に東アジア圏などのニューリッチの事です。グローバリゼーションはそもそも人々に何をもたらすと言われていたかというと、途上国がもっと経済発展できるということでした。その根拠となっているのが70年代以降の東アジアの経済的躍進です。これまでだったら南北格差という形で固定化されていた南の社会からニューリッチと呼ばれる人たちが出てきました。

 今、彼らは国際的なネットワークを築いており、リチャード・フロリダなどがクリエイティブ・クラスの流動化を論じる根拠となっています。そういう知識産業に従事するようなニューリッチたちは、自分の才能の投下先だとか納税先までも含めて自分で選んで世界中を動き回っています。具体的には都市が選択の対象になってくる。こっちの方が民主的な都市であるとか、自由度が高い都市であるとかで人が集まってくる。

 フロリダの言うクリエイティブ・シティという概念はもともとそういう概念で、都市の発展度が云々というよりも、どのぐらい多様性に対して寛容かで才能が集まる都市が変わってきているということです。例えば、ゲイをどのくらい受け入れているかで許容度に応じて指標を作ると、その指標が高い都市ほどクリエイティブな人たちが集まってくる。このような形でグローバルな市場経済にうまく乗っかれた人間にとっては、よりリベラルな都市を求めて移住していくことが可能になっています。こういういわば民主的なコスモポリタンな世界というのが上層では出来上がっています。これはかつての世界秩序から考えてみればいい方向に向かった部分だといえるでしょう。

 だが、他方で、そこから排除されている人たちとか絶対そこには入れそうもない人たちも増えています。世界銀行などの立場はアフリカの開発に関してもアジアと同じようなことをやれば、アフリカの経済発展は可能だというような考えです。だが、なかなかそうはなっていかない。こうした中で、グローバルな形での異議申し立てのネットワークというのも生まれつつあるわけです。ネグリ=ハートがマルチチュードと呼ぶような人々です。

 いずれにせよ先進国あるいは途上国の一部で生まれてきているそういう反グローバリゼーションあるいは環境問題などへのコミットを伴ったネットワークといったものというのは、グローバリゼーションが進んだことの結果生まれてきたものです。これがグローバリゼーションのポジティブなもう一つの側面といえるでしょう。ネグリ=ハートが述べるとおり、〈帝国〉が生まれたことによって、アンチ〈帝国〉が可能になったわけです。

<ロハスとスローフードは異なる概念>

◆ローカルな価値の見直しも生み出されていますが

 世界的な反グローバリゼーション運動の高まりには、そもそも二つの側面があります。例えば、環境に配慮したライフスタイルによって、いわば一段グレードの上のライフスタイルを享受しようという、ニューリッチとかボボズとか呼ばれている人たちがいます。グローバリゼーションのあおりを食って環境に悪い野菜とかを食べさせられるのは困るので、少し高いお金を出しても有機野菜を買おうというのがアメリカから入ってきたロハスという考え方です。これはもともと90年代末に出来たマーケッティング用語です。

 これとは別に反グローバリゼーション運動の中から出てきているヨーロッパ由来のスローフードという理念があります。具体的にはイタリア各地に地域的な相互扶助を目的で設立され、反ファシズム運動の拠点ともなった「人民の家」で80年代に生まれました。アメリカ的な食文化に対抗するものです。ところが、日本では二つの言葉が同時に輸入されてしまったので、最近ではその辺を勘違いしてる人が多くいます。

 ヨーロッパ由来のスローフード運動というのはコミュティの野菜を見直しましょうとかいう話で、そこに生きてそこに生まれたコミュニティの持っている本来性みたいなものを抵抗の足場にしています。だから、どこからやってきたのか分からないマクドナルドの肉は食べないという話になる。これに対して、ロハスはもともと市場原理を否定しない環境運動ですから、お金を持ってる人だけが環境に対して配慮が出来るという発想なので、本来性とは基本的に関係がありません。

 このスローフードもやはりグローバリゼーションの一つのリアクションで、スローフードの国際的なネットワークというのが広がっていく一方で、その広がったネットワークというのがやっていることが実はローカルな価値を見いだそうという運動になっている。この不思議にねじれた現象というのが、今まさにグローバリゼーションを2方向に引き裂くような力として生じています。もっと世界に広がっていこうという考え方ともっと自分たちのかつての足場を見直していこうと考え方。同時にこれらが生じてきているのがグローバリゼーションの現状なのです。

<ローカリゼーションの可能性に注目したい>

◆国家主義とつながる危険性はないのですか

 今、基本的に心配されているのはそこだと思います。つまりローカル性とか本来性みたいなものを無前提で認めてしまう心情は、保守的な方向に回収されてしまうのではないかということですね。実はそこには選り分けの難しい問題が二つ重なっているのです。グローバリゼーションに伴ってローカリゼーションが強くなり、本来性を求める動きが強くなって、さらに偏狭になってくると原理主義になるという考えが一方にある。

 それとは別にデイヴィッド・ハーヴェイなどが言ってますが、新自由主義体制というものが世界中に広がると、市場原理にもとづいた社会運営がなされるようになるので、流動性が上がって先が見えない不安定な労働者が増える。不安定な労働者が増えるとセキュリティや将来性に対する強い不安から、強固な監視やセキュリティを要求したり、あるいは厳罰主義に走ったりというようなことが起きる。ハーヴェイが指摘しているのは、そういうメカニズムから、あらゆる新自由主義を採用した社会で新保守主義が台頭してきて、ナショナリズムが強くなるということです。

 日本は安倍政権がナショナリズムに傾いていますが、今後どこにいくのかは実は僕は微妙な状況だと思います。ハーヴェイの説明をそのまま受け取っていいのかどうなのか悩むところもあります。これはギデンズもずっと言ってることですが、新自由主義と新保守主義というのは理屈で考えると結びつくはずはないわけです。しかし両者は何故か結びつきやすいという傾向にある。

 ナショナリズムというものはナショナルミニマム、つまり社会保障体制と引き替えに自らを安定化させる作用があります。また、ナショナリズムがあるから社会保障の正当性が生まれるという逆の言い方もあります。「ニワトリが先か卵が先か」ですが、いずれにせよ両者は密接な関係にあります。しかしながら社会保障の枠組みを取っ払ってあとは自己責任でやってくれといっても、それでナショナリズムが維持可能かというと、そんなわけはないと思うのです。にもかかわらず多くの国で現実にはどうもそういう風になっている。そのことの説明はハーヴェイの説明だけではまだまだ不十分だと思います。

 こうした留保をつけた上で、新自由主義がナショナリズムに行きやすいとしましょう。グローバリゼーションに対するリアクションとしては、そのナショナリズムとは別に、ローカルな価値を見直そうという動きがあります。多くの若者の中でローカルな価値の見直しが進んでいることとナショナリズムの高まりとはよく一体にして語られますが、僕はむしろ峻別して考えた方がいいと思います。

 つまり若者がサッカーを見に行って「日本大好き」といっている「日本」の中に、「日本」をともに構成する成員として、たとえばホームレスや、破産した地方の自治体なんかが入っているかどうか。彼らの想像力の中にそういうものが入っていなければ、「日本」という名前の付いた、あるローカルな価値への見直しが起きているという風に理解した方が良いのではないか。

 ナショナリズムというのはそういう人たちも「想像の共同体」の中に組み込んでいくという話です。昨今盛り上がりつつあるローカルな価値というものがそこまでの広範な想像力を持ちうるかどうかというと、かなり疑問です。ただし、これまた留保をつけなくてはいけないのは、そういう想像力が広がっていないところに、外から、例えば中国・韓国からネットなどを経由して「反日」みたいな言説が入ってくると、「なんだこのやろう」というふうになって、地元への愛着がいっきに国への愛着にすり替えられてしまうことが起こる可能性があります。両者は非常に微妙なかたちで癒着するので、その点には注意する必要があると思います。

 でもこれらを一緒くたに、全部ナショナリズムだから危険だといって解決できるかというとおそらくそれは出来ないと思います。そこを引き剥がしてしまうと、新自由主義のなかで人々は、ローカルな足場を失った砂粒のような人間として生きることを強いられることにしかならない。このジレンマ状況の中でローカルな価値に対する見直しというものが起きていることをどうやって正当化できるのか、そういう発想で書いたのが、先日上梓した『〈反転〉するグローバリゼーション』という本だったわけです。

 いずれにせよグローバリゼーションの進展は、不可避的にアイデンティティの追求やローカルな価値の見直しをもたらします。これにいかに対応していくのか抜きにグローバリゼーションの先にあるものを語ることは出来ないでしょう。内側に向かって閉ざされることの無いような、グローバルに繋がっていけるような、コミュニティが作られていくことを望みます。その場合、格差がとくに若者の間で広がり、「若者の右傾化」などとマスコミで取り上げられる中で、マスコミの論調に踊らされることなく、国家主義に絡めとられることがないような若者の自発的な動きが重要な鍵を握っているように思います。 

PROFILE▼すずき・けんすけ
1976年福岡県生まれ。国際大学GLOCOM研究員。専攻は理論社会学。ネット文化や若者の内面を社会学的視点から分析。2006年より「文化系トークラジオ Life」(TBSラジオ)のパーソナリティを務める。著書に『ウェブ社会の思想』『〈反転〉するグローバリゼーション』『カーニヴァル化する社会』『暴走するインターネット』、共著『21世紀の現実』ほか。

(1249号 2007年8月10日発行)