国民投票法が成立し、いよいよ憲法改正を巡る動きがあわただしくなっている。

 残念ながら、現在の改憲派と護憲派の論争はそれほど実り多いものとは思えない。

 自民党改憲案は、国民主権や民主主義の原則を後退させ、国家主義を招来する恐れがある。一方世界有数の軍隊を持ちながら自衛権すら認めない多くの護憲派の主張は、理想主義的で現実性に乏しい。両者の主張は共に、余りにイデオロギッシュなのだ。

 日本国憲法制定過程に深く関わり、GHQをして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた白洲次郎。この本は、戦後彼が文芸誌などに寄稿した時事評論を集めたものだ。

『プリンシプルのない日本』

 白洲は一貫して、リベラルな社会にとって必要なものはイデオロギーではなくプリンシプルだと主張している。昨今の白洲次郎ブームのなか、改憲派も護憲派も彼の言説を我田引水するが、白洲の真意はどこにあったのか。

 白洲は、「(憲法の)プリンシプルは実に立派である。マックアーサーが考えたのか幣原総理が発明したのかは別として、戦争放棄の条項などその圧巻である。押しつけられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと素直に受け入れるべきではないだろうか」と記している。

 他方で、「革新連中のいうように安保を破棄して、国際協定下において無防備の国家の存在の可能性を少しでも認める連中は、スイスに行って、スイス人に聞いてみるがよい。永年永世中立をまもり、内外ともにその中立性の実績が厳然たる事実であるスイスにおいて、どれだけの予算を割いて国家の防備に当っているかを。スイスですら出来なかったことを我々はやるのだと意気ごんでいる人々がいるのならその意気は壮とするが、この世の中には生きてゆけまい」とも述べている。

 白洲にとって問題なことは、護憲・改憲の二元論ではない。「軽重の差こそあれ、この馬鹿げた戦争を始めてこのみじめな状態に国民を引きずり込んだ責任は、現在の40歳以上の人々はみんなあると思う」と述べ、二度と戦争をしてはならないと訴える。その彼にとっては、リアルに日本の安全保障を考えることもまた然りだ。

 イデオロギーについて白洲は、次のような興味深い指摘をしている。

 「いわゆるイデオロギーとか思想とかいうものが、日本の政治家たちには、普通に日常話していることと全然関係がないということがいえる」「彼等にとってイデオロギーというものは単なる道具なのだ、自分じゃ思想だと思っている。だからはっきりいえば、彼らには思想がないのだ」「だから論争になれば、感情的な喧嘩のほか何もない。お互いに言いっ放しだもの」

 白洲がイデオロギーを巡る真贋論争を嫌った背景は、学生時代のイギリス留学にあるようだ。神戸一中を卒業後、ケンブリッジ大学に留学。ブガッティやベントレーを乗り回す「オイリー・ボーイ」(オイルにまみれるほどの車好き)だった白洲だが、イギリス流のリベラリズムを学んで帰国したのは間違いない。

 帰国後の1942年、白洲は日米開戦と日本の敗北を予期し、東京空襲や食料不足に備えるために東京都南多摩郡鶴川村(現、東京都町田市鶴川)へ転居した。そして農業に励むかたわら、吉田茂を中心とする「ヨハンセン・グループ」(宮中反戦グループ)に加わって終戦工作に奔走し、戦後は外務大臣から首相となった吉田茂の右腕として活躍した。

 終始彼の言動の基準となったのは、狭隘なイデオロギーではない。右だろうが左だろうが、良いものは良いと評価し、悪いものは悪いと批判したのだ。

 「我々が現在声高らかに唱えている新憲法もデモクラシーも、単なる、かりものの域を脱しているとは思わない。我々のほんとの自分のものになっているとは思わない。新憲法なりデモクラシーがほんとに心の底から自分のものになった時において、はじめて『戦後』は終わったと自己満足してもよかろう」

 首相が「戦後レジュームからの脱却」などと軽薄に語る現在の日本。白洲はあの世から笑っているに違いない。

 もっとも「葬式無用、戒名不要」と記して逝った白洲のことだから、あの世にいるかどうかも定かではないが。
           (山風征路)

1244号 2007年5月25日発行

旧白洲邸「武相荘」