映評『バベル』(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督作品)
9・11後の世界で不安と孤独を抱えた人々
2001年9月11日、同時多発テロによって世界貿易センタービルが崩壊。その後、アフガン・イラク戦争が起こり、テロへの取り締まりと称した監視社会への移行が急速に進んだ。
一方、グローバリゼーションは社会的流動化と格差を生み出し、コミュニティや家族の崩壊を招いた。
『バベル』は、現代社会の中で孤立する人々の4つの物語が交錯する映画だ。
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アメリカ人夫婦(ブラッド・ピットとケイト・ブランシェット)は、夫婦の絆を取り戻すためにモロッコを旅していた。観光バスが山中にさしかかった時、地元の少年がいたずらで撃った銃弾が妻の肩を撃ち抜く。事態は「テロ事件」とみなされ、国際問題へと発展。少年の家族は大きな代償を払うことになる。
ロサンゼルスの夫婦宅で留守をあずかっていたメキシコ人の乳母(アドリアナ・バラッザ)は、息子の結婚式のため子どもたちを連れてメキシコへ向かう。だがアメリカにもどる際、国境の検問で甥(ガエル・ガルシア・ベルナル)のとった行動が最悪の事態を招く。
モロッコの事件で使われた銃の所有者は、東京に住む会社員(役所広司)。その娘チエコ(菊池凛子)は、孤独で満たされない日々を送っていた。
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監督のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥはメキシコ生まれで、9・11同時多発テロが起きる4日前にロサンゼルスに移り住んだ。イニャリトゥは、事件直後の米国での体験が映画を作る動機につながったと語る。
「街中に星条旗が掲げられ、私はトルコ人だと思われた。私にとっても、子どもたちにとっても辛い経験だった」「ロサンゼルスでは自分は弱く、無防備な存在だった。ここは生きづらい街だが、モノを作る人間にとっては自分を覚醒させ、刺激する材料には事欠かない。『バベル』は遠足に行ったり、日光浴をしたりして思いつくような作品ではない」(COURRiER Japon Vol.030)
映画ではテロ後のアメリカ社会に対する批判的な視点が出てくる。撃たれた妻を近くの村に運んで処置する場面では、バスの乗客が「ここにいては自分たちもテロの標的になる」とパニックになる。米国のマスコミはすぐに「テロだ」と大騒ぎ。メキシコ国境では、アメリカ人がメキシコ人に対して犯罪者を扱うかのようにふるまう。異なる文化に対する無理解と不安におびえる米国が描かれているのだ。
だが監督にとって最も思い入れがあるのは日本の場面だ。ここで登場する菊池凛子の演技は印象深い。ハンディキャップのため自分の欲求や想いが伝えられず苦しむチエコ。聾唖(ろうあ)の女子高生という設定に違和感を感じる人もいるだろう。しかしチエコは意思疎通を欠いた我々の姿を象徴している。
モノや娯楽があふれる日本では、消費欲求が煽られ、対象物を獲得できない者には孤独感だけがつのる。情報があふれ複雑化した現代社会では、単純に物事は進まず、ベースとなる共通認識もない。コミュニケーションは機能不全に陥っている。
チエコは怒っても、もがいても、さらけ出しても、受け入れられず拒絶される。彼女の姿に痛々しさを感じるのは、その孤独感に共感できるからだ。
一方でグローバル化された現代においては、我々一人一人のささいな行動が世界の見知らぬ人々に影響を与え、悲惨な結果を招くこともある。役所広司がとった善意の行為はモロッコの家族に思わぬ結果を招いてしまった。
現実の世界では地球温暖化や核廃棄物の問題、あるいは南北問題、人道的介入などの問題があふれている。テロ対策と称した大国の介入は、辺境の地にも容赦のない暴力と怒りをばらまいている。答えも見つからず、悲惨な世界から目を背けることも許されない。そんな時代に私たちは入り込んでしまったのだ。
映画は最後にそれぞれの国の家族が、失われた絆を傷つきながらも回復する様子を描いている。見終わった後に高揚感はないものの、今を生きる私たちにわずかばかりの希望を与える。大きな物語がすでに失われた現代に生きる我々にとって何らかの「希望」は必要だ。それが「愛」であるのは、おかしなことではない。
映画に対しては「話の設定に無理がある」「登場人物の描き方に深みがない」といった批判もある。確かに不十分な点は目につく。
しかしイニャリトゥ監督が表現しようとした「想い」は十分に伝わった。
(沼田昭介)
