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	<title>エコ＆ピース月刊誌Actio &#187; 172 書籍レビュー</title>
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	<description>環境・平和・人権をテーマに持続可能な未来を展望する市民メディア</description>
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		<item>
		<title>『しんしんと、ディープ・エコロジー ～アンニャと森の物語』</title>
		<link>http://actio.gr.jp/2010/12/21104528.html</link>
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		<pubDate>Tue, 21 Dec 2010 01:45:28 +0000</pubDate>
		<dc:creator>taketake</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[書籍レビュー]]></category>

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		<description><![CDATA[　エコロジーという言葉は一般的だが、ではディープ・エコロジーと聞くとどんなイメージを持つだろうか。
　筆者は、どこか常人の理解を拒むような、非人間的な印象を感じたものだ。
　しかし読み進めるとそうでないことがわかる。
 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p style="text-align: center;"><a href="http://actio.gr.jp/wp-content/uploads/2010/12/deepecology.jpg"><img src="http://actio.gr.jp/wp-content/uploads/2010/12/deepecology-727x1024.jpg" title="deepecology" width="436" height="614" class="aligncenter size-large wp-image-2506" /></a></p>
<p>　エコロジーという言葉は一般的だが、ではディープ・エコロジーと聞くとどんなイメージを持つだろうか。<br />
　筆者は、どこか常人の理解を拒むような、非人間的な印象を感じたものだ。</p>
<p>　しかし読み進めるとそうでないことがわかる。<br />
　エコロジーを端的に表すと「地球にやさしい」や「環境に配慮する」となるが、ディープ・エコロジーの意味するところはヨリ根源的だ。<br />
　それは「人間も生き物の一つであると知る」「内なる自然に目覚める」ということであり、私たちが自然とのつながりを取り戻すことこそが、ディープ・エコロジーの実践となる。</p>
<p>　本書はナマケモノ倶楽部世話人の辻信一氏がスローや平和、ローカルを軸に対談を繰り広げるシリーズ「ゆっくりノートブック」の最新刊。<br />
　今回の対談相手であるアンニャ・ライト女史もまた、ナマケモノ倶楽部の発足に深く関わった一人だ。</p>
<p>　スウェーデンに生まれ、今はオーストラリアで暮らすアンニャはマレーシア、次いでエクアドルの原生林を守るための活動に身を投じた。<br />
　マレーシアでは逮捕・拘束までされたが、いずれの場所でも開発する側の当事者は日本企業だった。<br />
　繁栄を謳歌するニッポンが世界中で繰り広げる自然破壊に、地球の裏側まで行って立ち向かったのがアンニャだ。<br />
　そして森の住人や生き物との交感を通じてインスピレーションを育んだ彼女は、シンガーソングライターの顔も併せ持つ。</p>
<p>　ベジタリアンで、自宅出産を成功させ、自分で家までも建てるアンニャの行動力には舌を巻くばかりだが、それは自然を破壊しつくす人間の業に誠実に向き合った証だ。<br />
　「あなたにも、あなたなりの方法で、ディープ･エコロジーを生きる道がある」と読者に語りかける。</p>
<p>　<span style="font-size: xx-small;">アンニャ・ライト、辻信一＝著<br />
　定価：1200円＋税<br />
　発売：大月書店刊</span></p>
<p>　（斉藤円華：ジャーナリスト）</p>
<p>（本誌<a href="http://actio.gr.jp/2010/08/03124636.html">１３０６号</a>掲載）</p>
<p style="text-align: center;"><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=actio-22&#038;o=9&#038;p=8&#038;l=as1&#038;asins=4904892143&#038;fc1=000000&#038;IS2=1&#038;lt1=_blank&#038;m=amazon&#038;lc1=0000FF&#038;bc1=000000&#038;bg1=FFFFFF&#038;f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=actio-22&#038;o=9&#038;p=8&#038;l=as1&#038;asins=4272320378&#038;fc1=000000&#038;IS2=1&#038;lt1=_blank&#038;m=amazon&#038;lc1=0000FF&#038;bc1=000000&#038;bg1=FFFFFF&#038;f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></p>
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	</item>
		<item>
		<title>『多摩のまち　自転車探検』ジモト＝多摩をママチャリで気ままに走る</title>
		<link>http://actio.gr.jp/2010/06/11102857.html</link>
		<comments>http://actio.gr.jp/2010/06/11102857.html#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 11 Jun 2010 01:28:57 +0000</pubDate>
		<dc:creator>taketake</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[書籍レビュー]]></category>

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		<description><![CDATA[　手前味噌で恐縮だが、初の著書を上梓した。
　私が住むジモト＝多摩をママチャリで気ままに走るというコンセプトで執筆したものだ。
　多摩と聞くとニュータウンに代表される都心のベッドタウン、23区のオマケ的な見方もされがちだ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div id="attachment_2003" class="wp-caption aligncenter" style="width: 280px"><a href="http://actio.gr.jp/wp-content/uploads/2010/06/tamanomachi.jpg"><img src="http://actio.gr.jp/wp-content/uploads/2010/06/tamanomachi.jpg" title="tamanomachi" width="270" height="384" class="size-full wp-image-2003  " /></a><p class="wp-caption-text">『多摩のまち　自転車探検』</p></div>
<p>　手前味噌で恐縮だが、初の著書を上梓した。<br />
　私が住むジモト＝多摩をママチャリで気ままに走るというコンセプトで執筆したものだ。</p>
<p>　多摩と聞くとニュータウンに代表される都心のベッドタウン、23区のオマケ的な見方もされがちだが、実はそうではない。<br />
　高尾山や、ジブリ映画の舞台となった里山に代表される豊かな自然が息づく。</p>
<p>　また新選組や自由民権運動をはぐくんだ歴史の舞台でもある。<br />
　一方戦時中は軍都として空襲にさらされ、基地や工場の跡地には米軍が進駐した。<br />
　戦争遺跡も数多く残る。</p>
<p>　そんな多摩の、普段は気付かない多彩な表情が、自転車に乗ることで見えてくる。<br />
　そうして自分の住む場所が身近に感じられれば、ジモトへの愛着もわくだろう。</p>
<p>　自転車に今流行のスポーツ車ではなくあえてママチャリを選んだのも、「思い立ったらすぐ出発！」というフットワークの軽さを大事にしたかったからだ。<br />
　そして言うまでもなく、スポーツ車でならよりバリエーションに富んだ楽しみ方ができる。</p>
<p>　グーグルマップ上にサイクリングコースを書き込めるウェブサービス「グリーンペダルマップ」（<a href="http://www.greenpedal.jp/">http://www.greenpedal.jp/</a>）を見てみると、ビューポイントやカフェなどのおすすめスポットが登録されているのは圧倒的に23区内が多い。<br />
　近頃の自転車ブームの理由の一つに「都市での快適な移動」があるが、それゆえ必然的に、ブームは都心を発信源とする一極集中的なものになりがちだ。</p>
<p>　しかし自転車の楽しみ方はもっと自由でいいはず。<br />
　たとえアーバンでなくても、ペダルの向こうには未知の世界がある。<br />
　ジモトで楽しむ自転車生活を提案する拙著は、一極集中へのオブジェクションでもあるのだ。</p>
<p>　（斉藤円華：ジャーナリスト）</p>
<p>　（本誌<a href="http://actio.gr.jp/2010/06/05212151.html">１３０４号</a>掲載）</p>
<p style="text-align: center;"> <iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=actio-22&#038;o=9&#038;p=8&#038;l=as1&#038;asins=4904892127&#038;fc1=000000&#038;IS2=1&#038;lt1=_blank&#038;m=amazon&#038;lc1=0000FF&#038;bc1=000000&#038;bg1=FFFFFF&#038;f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=actio-22&#038;o=9&#038;p=8&#038;l=as1&#038;asins=4877514082&#038;fc1=000000&#038;IS2=1&#038;lt1=_blank&#038;m=amazon&#038;lc1=0000FF&#038;bc1=000000&#038;bg1=FFFFFF&#038;f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></p>
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	</item>
		<item>
		<title>１４０字のつぶやきは世界を変えるきっかけになるか？　Twitterを活用してネットワークを広げよう</title>
		<link>http://actio.gr.jp/2010/03/16141218.html</link>
		<comments>http://actio.gr.jp/2010/03/16141218.html#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 16 Mar 2010 05:12:18 +0000</pubDate>
		<dc:creator>taketake</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[ーズアップ]]></category>

		<category><![CDATA[書籍レビュー]]></category>

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		<description><![CDATA[　この10年ほどの間に爆発的に普及したインターネット。今やネット検索や電子メールでのやり取りを抜きに日常生活はあり得ないほど多くの人が活用している。
　そんななか、ここ数年で利用者が飛躍的に増大し注目を浴びる新たなネット [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　この10年ほどの間に爆発的に普及したインターネット。今やネット検索や電子メールでのやり取りを抜きに日常生活はあり得ないほど多くの人が活用している。</p>
<p>　そんななか、ここ数年で利用者が飛躍的に増大し注目を浴びる新たなネットコミュニケーションツールがツイッター（Twitter）だ。<br />
　アメリカ大統領選ではオバマ陣営が活用、勝因の一つになったとも言われるが、その仕組みは極めて単純。<br />
　「今どうしてる？」との問いに１４０字以内でつぶやく。勿論、つぶやく内容は日常の細々から政治的話題まで自由自在だ。</p>
<p>　政権与党民主党の国会議員にはツイッターを活用している人も多く、「仕分け人」蓮舫議員は、毎日事業仕分けの様子をつぶやき注目された。<br />
　危機感を抱いた自民党も国会議員に利用を指示。<br />
　朝日新聞や毎日新聞などの大手マスコミ、あるいは企業なども公式アカウントを取得して宣伝やマーケッティングに利用し始めている。</p>
<p>　私自身始めてまだ数カ月だが、正直かなりはまっている。<br />
　原発、環境、政治などの社会的テーマから自転車、合気道など個人的趣味まで、毎日のようにつぶやいている。<br />
　そんな私のつぶやきをフォローしてくれる人も日毎に増え、賛否両論様々な反応が返ってくるのは実に刺激的だ。</p>
<p>　とは言え1回に投稿できる文字数はわずかで、つぶやきはどんどん流れては消えていく。<br />
　「これでどんなコミュニケーションが可能なの？」と疑問を抱く人は多いだろう。</p>
<p>　しかしツイッターの開発者はこう語っている。<br />
　「人間同士のコミュニケーションは、得てしてたわいもないことから始まる」。</p>
<p>　確かにいくら理路整然とした立派な文書でも、延々と論じられては気軽に読めない。<br />
　オフライン同様、「おはよう」とか「今日はいい天気だね」との何気ない会話こそ潤滑油になる。<br />
　さらに相手の承認なしに勝手にフォローできるので、気軽にどんどんネットワークを広げられる。<br />
　自由で開放的な緩やかなつながりを創造できる空間なのである。</p>
<p>　「だけど重要なことは何も伝えられないのでは？」とのさらなる疑問にもお答えしたい。<br />
　ツイッター上を駆け巡っている何万ものつぶやきは貴重な情報の宝庫。</p>
<p>　例えば沖縄普天間基地移設問題。<br />
　マスコミは連日のように「鳩山政権が辺野古移転を拒んでアメリカが怒っている」と伝えた。<br />
　しかしツイッター上では早くからまったく逆の情報が様々なソースから流れていた。<br />
　アメリカの最大の関心事は海兵隊のグァム移転であり、もともと辺野古移転に関心はない。<br />
　むしろ埋立利権を得たい日本側にこそ拘っている輩がいると。</p>
<p>　私は日頃からマスコミ報道には何かと疑問を感じ、メディア・リテラシーの必要性を自覚していたつもりだ。<br />
　しかしツイッターを通じて様々な情報に触れることで、あらためてマスコミの偏向報道の酷さを痛感した。<br />
　テレビのニュース番組よりもツイッター上に流れる価値ある情報を精査し拾い上げる方がはるかに信頼できる。</p>
<p>　さらにツイッターは、テレビやラジオを上回る速報性や波及力を発揮する可能性を秘めている。<br />
　１万人にフォローされている人のつぶやきは、リアルタイムで１万人に伝わる可能性があり、それがさらに連鎖すれば何十万、何百万の人にあっという間に情報が波及する。<br />
　ニューヨーク・ハドソン川に旅客機が不時着した際、それを最も早く伝えたのはiphoneからの写真付つぶやきだった。</p>
<p>　とにかく百聞は一見にしかず。一度ツイッターにチャレンジしてみて欲しい。<br />
　環境や人権などのテーマに取り組むＮＧＯやＮＰＯ、社会起業家、ジャーナリスト、政治家など、実に多種多様な人たちと新しい関係を創造するチャンス！</p>
<p>　最後に、『Twitter社会論』の著者津田大介氏の言葉を紹介しておこう。</p>
<p>　「人々が動くための一歩目を踏み出すツールとして、ツイッターは間違いなく優秀だ。何かをあきらめてしまった人が、ツイッターを使うことで『再起動』できれば、少しずつ世の中は良い方向に動いていく。そんな希望を持ちたくなる、得たいの知れない力をツイッターは持っている」</p>
<p>　（渡瀬義孝）<br />
（<a href="http://actio.gr.jp/2010/01/15123229.html">２０１０年２月号</a>掲載）</p>
<p style="text-align: center;"><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=actio-22&#038;o=9&#038;p=8&#038;l=as1&#038;asins=4904892070&#038;fc1=000000&#038;IS2=1&#038;lt1=_blank&#038;m=amazon&#038;lc1=0000FF&#038;bc1=000000&#038;bg1=FFFFFF&#038;f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=actio-22&#038;o=9&#038;p=8&#038;l=as1&#038;asins=4862484824&#038;fc1=000000&#038;IS2=1&#038;lt1=_blank&#038;m=amazon&#038;lc1=0000FF&#038;bc1=000000&#038;bg1=FFFFFF&#038;f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></p>
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	</item>
		<item>
		<title>書評『最強の経済学者　ミルトン・フリードマン』（ラニー・エーベンシュタイン著　大野一訳　日経ＢＰ社）</title>
		<link>http://actio.gr.jp/2009/07/16164001.html</link>
		<comments>http://actio.gr.jp/2009/07/16164001.html#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 16 Jul 2009 07:40:01 +0000</pubDate>
		<dc:creator>taketake</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[書籍レビュー]]></category>

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		<description><![CDATA[多面的世界における「人間フリードマン」―リバタリアニズムの帰結と21世紀資本主義の未来
＜問われる市場・資本主義像＞
　経済学の歴史は「市場メカニズム」をめぐる認識の「対立」史といってもよい。かつて87歳のフリードマンは [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><span style="color: #008000;"><strong>多面的世界における「人間フリードマン」―リバタリアニズムの帰結と21世紀資本主義の未来</strong></span></p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜問われる市場・資本主義像＞</strong></span></p>
<p>　経済学の歴史は「市場メカニズム」をめぐる認識の「対立」史といってもよい。かつて87歳のフリードマンは青木昌彦氏と悠然たる討論を行ったが（２０００年１月４日「読売新聞」）、政府の過剰コントロールを最大の脅威とみなし、あくまで市場システムに全幅の信頼を寄せるフリードマンに抗して、文化や社会規範・歴史依存性、政府の弾力的役割の組み合わせによる、各国経済システムの多様性を重視する青木の学説とのコントラストが示唆に富む、なかなか刺激的な「対話」である。</p>
<p>　フリードマン（と夫人）の著名な代表的啓蒙書である『選択の自由』（１９８０年）で力説された「市場の威力」は、利潤率の低い所からより高い所に向かって世界中を自由に闊歩する「グローバル資本」や「投機マネー」の席巻によって、今や「市場の暴力」へと転換を余儀なくされてきている。</p>
<p>　閉塞感に満ちた「歴史の危機」、そしてまた「主体の危機」の時代に生きていることを明確に自覚し、フリードマンの市場メカニズム万能論や競争資本主義論を真摯に再省察するとともに、21世紀資本主義像の開拓のために、われわれは限られた知性をあらためて結集しなければならない。</p>
<p>　こうした情勢下、フリードマン評伝（２００７年）の邦訳が刊行された。序章を含む全25章からなる本書は、経済理論・政策論、リバタリアニズムの思想を中心として、彼の生涯と学問的業績を平易に解説することを目的としている。</p>
<p>　表題に付された（説明なき）「最強の経済学者」なる文言には留意すべきだ。挑発的なタイトルは読者に余計な先入観を与えうる。間宮陽介氏は宇沢弘文氏との対談において、なぜ「フリードマンが最強の経済学者などと持ち上げられてしまったのか、私には非常に不思議に思われます」と率直な心情を語っている（『世界』２００９年１月）。「不屈の経済学者」が妥当であろう。なお同社の新訳版『資本主義と自由』（初版１９６２年）との併読も推奨したい。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜多面的世界のフリードマン＞</strong></span></p>
<p>　Ｇ・ソロスの『グローバル資本主義の危機』では、「市場原理主義」の急先鋒的イデオローグとしてフリードマンが名指しされる。彼は望ましい資本主義の形態を「自由な私有財産（free private property）」の３語で表現しうるとした（３０８頁）。第15章「資本主義と自由」と第20章「選択の自由」、第18章「政策提言」と第21章「レーガン」をセットとみれば、彼の経済思想は「新自由主義（ネオリベラリズム）」・「自由至上主義（リバタリアニズム）」―徹底した自由主義・個人主義・市場主義―の源泉であり、真っ先に批判されるべき「シカゴ学派」の代表的論者に直結される。</p>
<p>　規制緩和・減税そして民営化に象徴される「小さな政府」の促進、自由貿易と変動為替相場制の機能的意義、金融政策（マネーサプライの安定供給）によるインフレ抑制と物価安定の重要性など、フリードマンの単純明快な政策提言は、レーガノミクスやサッチャリズムの支柱となり、世界的規模での影響力を顕著に行使してきた。その余波は急進的な新自由主義小泉政権にも及んだ。しかし自由な競争的市場に委ねれば効率的で公正な経済秩序を実現しうると想定する新自由主義は、その理念に矛盾して重大な災厄と危機を惹き起こした。それらの具体的様相は記憶に新しい。</p>
<p>　市場主義的「構造改革」派の先導者・中谷巖氏は、昨年末に刊行された『資本主義はなぜ自壊したのか』という注目すべき「自戒」書を通じて、グローバル資本主義それ自体に深刻な不安定性・経済格差を生み出す破壊性が内包しており、アメリカ発新自由主義を普遍的原理とみなすことは誤謬であると反省的に喝破した。</p>
<p>　新自由主義はそれが批判する国家権力（極大国家）を逆説的に出現させると同時に、「自由化のなかの不自由化」を助長する（間宮）。それはまさにＤ・ハーヴェイが呼称した「新自由主義国家」だ。新自由主義が資産家・富裕階級の権力奪回を企図する一種のイデオロギーならば、理想と現実の乖離は当然の帰結といえる。こうして「最強」でなく、むしろ「元凶」としてのフリードマン像が自然と浮かび上がるかもしれない。</p>
<p>　とはいえ本書は、人間フリードマンの「多面的ドラマの軌跡と諸相」を克明に描き出した、優れた「評伝」に仕上がっている。「フリードマンは、はじめからマネタリストだったわけではない」（１５１頁）のであり、当初は「異端者」だった（１７８頁）。</p>
<p>　研究・教育者の素顔、家族を愛する良き夫・逞しい父親、恩師（ヴァイナーやナイト）と数多くの同僚・論敵（スティグラー、サミュエルソンやガルブレイスら）との交流、コラムニスト・経済顧問としての活躍など、彼の壮大な知的遍歴はまことに刺激的である（第３章「シカゴ大学 コロンビア大学」、第９章「家族」、第10章「教授」、第12章「ケインズ」、第17章「同僚」、第22章「ハイエク」の諸章を参照）。</p>
<p>　ゆえに、「今日、フリードマンに対するもっとも一般的な評価は、おそらく『リバタリアニズムの著名な理論家・信奉者』にとどまるのではないか」（12頁）という一面性の変更を迫ることにも当該評伝は寄与している。</p>
<p>　知られざるユーモア溢れるエピソードを巧みに盛り込む軽快な筆致からは、「自由なる選択」者（論客）として一時代を築き、果敢に生き抜いてきた人間フリードマンの力強さが如実に汲み取れる。確固たる信念を貫徹しようとするタフな人生模様がそこにある。賛否はひとまず措くにせよ、含蓄ある「言葉」も興味深い。</p>
<p>　「94年（１９１２～２００６年）」の長さを鑑みれば、本書はある意味で「20世紀経済学の縮図」としての意義深い力作といえよう。「ミスター・ミクロ」の多面的世界に見事に肉薄しえたのは、豊富なインタビューを含む著者の綿密な調査努力の賜物である。</p>
<p><span style="color: #0000ff;"><strong>＜21世紀の経済学に向けて＞</strong></span></p>
<p>　かつてソ連崩壊を「リベラル民主主義と資本主義」の圧倒的勝利（＝「歴史の終わり」）と総括したＦ・フクヤマは、「ニューズウィーク日本語版（２００８年10月29日号）」の特別寄稿文のなかで、昨今の世界金融危機は、アメリカの輸出品である「思想という名のブランド力」―経済成長の原動力としての減税・規制緩和など「小さな政府」の樹立、自由主義と民主主義の世界各国における浸透を標榜する「思想」―の威光を急速に減退させていると主張している。掲載誌の表題は「資本主義の未来」だ。</p>
<p>　本書巻末「インタビュー（２００５年）」の最後の質問で、フリードマン自身が「経済思想史の完結」、「歴史の終わり」というフクヤマの認識を否定していることは印象深い。思想と時代は変転し、総じて「資本主義の未来」は時空を超えた普遍的主題である。</p>
<p>　ケインズよりフリードマン、マルクスよりスミスという「時代の潮目」は変わりつつある。資本主義の動態性・革新性・不安定性について独自のヴィジョンを確立したマルクス、ケインズやシュンペーターから学ぶべきことはなお多い。21世紀の経済学は、先達の遺産をより深化させる学問精神、いわば「共創の精神」によって導かれる。</p>
<p>　フリードマンは『資本主義と自由』の「結論」で、「経済への影響力がすでにどれだけ政府に握られていようと、自由を守り自由の範囲を広げることは不可能ではないと私は信じる。だがそのためにはまず、直面する脅威に目覚めなければならない」と総括した。</p>
<p>　今日のわれわれが「直面する脅威」とは果たして何か。集権主義・官僚主義の弊害をめぐる彼の鋭い洞察は枢要ではあるが、他方でまた、「市場経済」と「自由主義」を万能視しえない以上、いかにこれらと対峙すべきか、各々の概念的基礎を絶えず問い直してゆく地道な認識営為が不可欠だ。その第一歩を踏み出すべく、フリードマン評伝は貴重な指針と概観を提供するだろう。一読の価値は大とみる。</p>
<p>（塚本恭章　１９７４年生、東京大学大学院経済学研究科修了、経済学博士）</p>
<p><a href="/2009/02/27063113.html">（１２８７号　２００９年３月１０日発行）</a></p>
<p style="text-align: center;"> <iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=actio-22&#038;o=9&#038;p=8&#038;l=as1&#038;asins=4822246426&#038;fc1=000000&#038;IS2=1&#038;lt1=_blank&#038;m=amazon&#038;lc1=0000FF&#038;bc1=000000&#038;bg1=FFFFFF&#038;f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></p>
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	</item>
		<item>
		<title>書評『悪魔とラブソング』（桃森ミヨシ・作品　集英社）　キリスト教的なメタファーが散りばめられた少女マンガ</title>
		<link>http://actio.gr.jp/2009/05/17062431.html</link>
		<comments>http://actio.gr.jp/2009/05/17062431.html#comments</comments>
		<pubDate>Sat, 16 May 2009 21:24:31 +0000</pubDate>
		<dc:creator>taketake</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[書籍レビュー]]></category>

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		<description><![CDATA[連帯を求めて孤立を恐れないキャラに萌えた


&#160;　「マンガは世界に冠たる日本文化」とは、今や世間の常識的見解であろう。そして、近代史のなかで独自の少女文化を作り上げた日本では、少女マンガが一大ジャンルとして確 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>
<span style="color: #008000"><strong>連帯を求めて孤立を恐れないキャラに萌えた</strong></span>
</p>
<p>
&nbsp;　「マンガは世界に冠たる日本文化」とは、今や世間の常識的見解であろう。そして、近代史のなかで独自の少女文化を作り上げた日本では、少女マンガが一大ジャンルとして確立している。
</p>
<p>
　勿論それにはピンからキリまであるが、質の高い作品は芸術の域にまで達し、数多くの知識人に礼賛されている。一般の少女マンガでも、人間の内面や心の機微を丁寧に描写する傾向が強い。コミュニケーション・テーマには好適なジャンルなのだ。
</p>
<p>
　言うまでもなく、この世界での自分の立ち位置や人生の在り方は、人と人とのコミュニケーション関係に大きく規定される。それ故に人の関係性を巡る問題は、小説・映画・テレビドラマ・マンガなどの重要な主題となる。
</p>
<p>
　本稿で取り上げる『悪魔とラブソング』（桃森ミヨシ・作）は、いかに他者と向き合うべきかとの問題に根深く切り込んだ少女マンガだ。
</p>
<p>
<img src="/old_files/mt/mt-static/FileUpload/pics/2009review/lovesong-1.JPG" alt="『悪魔とラブソング』（桃森ミヨシ・作品　集英社）" title="『悪魔とラブソング』（桃森ミヨシ・作品　集英社）" width="350" height="350" />
</p>
<p>
<span style="color: #0000ff"><strong>＜悪魔と呼ばれるヒロインの葛藤＞</strong></span>
</p>
<p>
　『悪魔とラブソング』は、集英社の雑誌「マーガレット」にて現在連載中であり、１月の時点で単行本は５巻まで刊行された。本作の主人公・可愛マリアは、県でトップクラスのミッション系学校・聖カトリア女子を対教師暴力事件で退学となり、偏差値低めの十塚学園高校に転入してくる。
</p>
<p>
　マリアは成績優秀のみならず、モデル体形で並はずれた美貌の持ち主である。絵に描いた様な（マンガだから当然ではあるが）眉目秀麗・容姿端麗の超絶美少女なのだが、高飛車な口調で人の本質を抉る直言を繰り返し、クラス中の生徒や担任教師から目の敵にされてしまう。
</p>
<p>
　クラスでのいじめに遭いながらも、彼女は怯む事なく真正面から他者に向かう。そして彼女は少しずつ周囲の者を変え、また自身も変わり始め、徐々に自分の居場所を獲得していくのである。人を信じるとはどういう事か、いかに人に気持ちを伝えるのか、それが本作に鳴り響く通奏低音たるテーマだ。
</p>
<p>
　テーマの良さもさる事ながら、他に比類なき可愛マリアの人物像は作品の魅力の源泉である。私の萌えのツボど真ん中のヒロインだ（既読マンガの全キャラ中で最愛）。当初は周囲から悪魔呼ばわりされるキャラだが、その「悪魔性」の中身にオリジナリティがある。
</p>
<p>
　それは他者を陥れる・自己チュー・ねじ曲がった性格・邪心に充ち満ちている、などの類では全くない。彼女は気高く清廉潔白で、強い意志と正義の志がある。加えて人間の本質を鋭く見抜く能力を持っている。彼女は他者を傷つけるためではなく、寧ろ他者を守る為に行動するのだ。
</p>
<p>
　しかしながら彼女は嘘がつけず、また空気も読めない為、相手の負の部分を容赦なくズバズバと言ってのける。他者にとって彼女は、己の醜悪な面を映し出す鏡として機能するのだ。それ故、マリアはクラスメイト達にとって「悪魔」なのである。そんな彼女を象徴するのが、物語導入部でのエピソードだ。電車通学の際、彼女は乗客をスリから守ろうとしているのに、それを誤解した乗客たちから陰口を叩かれてしまう。
</p>
<p>
　彼女が他者に求めているのは、嘘偽りのない本音でのぶつかり合いだ。然るに他の若者達は、お互い傷つかない様に空気を読みながら、当たり障りのない微温湯的な関係を作り上げている。そんな表層的コミュニケーションの中で、マリアの言動は強烈な摩擦を起こす以外にない。
</p>
<p>
　彼女自身、自分の言動が他者を傷つけ、関係性のノイズとして作用していると自覚している。そしてそんな風にしか行動できない自分を嫌い、常に自分を変えたいと願っている。「あんたは人を汚れさせる」。聖カトリアでの「親友」申利あんなから退学の日に伝えられたこの言葉は、原罪のごとくマリアの心に不協和音を響かせていた。
</p>
<p>
<span style="color: #0000ff"><strong>＜ハリネズミのジレンマはどうなる＞</strong></span>
</p>
<p>
　人を傷つけたくないが、人とは深く関わりたい。そんなマリアのジレンマを回避するためのキーワードは、「ラブリー変換」。これは、クラスの人気者で初期からマリアに味方する神田優介が教えた処世術で、攻撃的な言い方を柔らかくする方法だ。優介にとっては「きれいに生きる為のサバイバル術」だが、マリアはその内容を変更し、他者を受容しながら真摯に他者に向き合う為の術としていく。
</p>
<p>
　そんなマリアの影響で、優介の他者への関わり方も変わり始める。クラスメイトに対し、上辺だけではない清濁併せ飲む深い関係性を取り結ぶようになっていく。
</p>
<p>
　さらにマリアと深く関わるのは目黒伸。ぶっきらぼうで口の悪い一匹狼だが、面倒見良い一面がある。最初はマリアを嫌って距離を置くが、途中から彼女に惹かれ始める。マリアとは相思相愛になるが、物語の進展に伴いその恋愛模様は暗雲を孕んだものとなりつつある。
</p>
<p>
　クラスの女子からいじめられていた甲坂友世、マリアいじめの中心人物だった中村亜由も仲間へと変わる。マンガの題名にもなっている「ラブソング」だが、まさに歌がクラスの皆を結び付ける紐帯となるのだ。合唱コンクールが催される事になり、担任のいじめによりクラスで孤立するマリアにリーダー役が押し付けられる。しかし抜群に歌が上手いマリア。擬制「天使」キャラ井吹ハナがもたらす波乱などの紆余曲折を経ながらも、ついにクラス全体の絆が形成されるに至る。
</p>
<p>
　なお本作品では、マリアが身につけているケルト十字架（永遠の絆の形象）を象徴する漢字部首「申・甲・由」が、彼女に近しい者の名前に組み込まれている。そして、聖母マリアならぬマグダラのマリアをイメージしたヒロイン設定。異端審問や魔女狩りの隠喩、罪と贖罪の問題等々、キリスト教的モチーフが物語に深みを与えている。
</p>
<p>
　最近の展開では、マリアに深い愛憎を抱く申利あんなが登場し、新たな局面を見せ始めた。彼女が絡むなか、マリアの意外な生い立ちが明らかになりつつある。母は中学生の時米兵にレイプされ、マリアはその私生児として生まれたこと。だから本作の舞台は、米軍が身近な横浜。
</p>
<p>
　幼少期のマリアが、「ママはどうしてあたしのことを失敗作だと思っているの」と追及し、母を自殺に追い込んだ事。封印されたその記憶はトラウマとなって彼女を呪縛している事。衝撃的な事実が徐々に明らかとなり、今後の展開が激しく気になる。
</p>
<p>
　まさに本作品は、少女マンガの王道的様式で表現しつつ、読む者に深い思考を迫る問題群をさり気なく埋め込む離れ業を駆使している。正統派少女マンガ的な絵柄を苦手とする向きもあろうが、ぜひ一読を勧めたい。自分の生き方や他者への関わり方について考えさせられる作品だ。
</p>
<p>
　（磯生錬磨）
</p>
<p>
<a href="/2009/01/30061812.html">（１２８５号　２００９年２月１０日発行）</a>
</p>
<p>
<img src="/old_files/mt/mt-static/FileUpload/pics/2009review/lovesong-2.JPG" alt="カルロ・クリヴェッリ『マグダラのマリア』" title="カルロ・クリヴェッリ『マグダラのマリア』" width="350" height="546" /></p>
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	</item>
		<item>
		<title>書評『クルマのない生活』（今泉みね子著　白水社）</title>
		<link>http://actio.gr.jp/2009/04/10153451.html</link>
		<comments>http://actio.gr.jp/2009/04/10153451.html#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 10 Apr 2009 06:34:51 +0000</pubDate>
		<dc:creator>taketake</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[書籍レビュー]]></category>

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		<description><![CDATA[システムでは環境先進国ドイツにかなわないが
「もったいない」は誇るべき日本文化


　『クルマのない生活』は、ドイツのフライブルクに長く暮らす環境ジャーナリスト、今泉みね子さんのエッセイ集だ。


　「環境にできるだけ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>
<span style="color: #008000"><strong>システムでは環境先進国ドイツにかなわないが<br />
「もったいない」は誇るべき日本文化</strong></span>
</p>
<p>
　『クルマのない生活』は、ドイツのフライブルクに長く暮らす環境ジャーナリスト、今泉みね子さんのエッセイ集だ。
</p>
<p>
　「環境にできるだけ配慮したいし、自然も守りたいけど、短い人生を思いっきり楽しく生きてもみたい。こんな我がままなわたしが、たてまえと本音のあいだでウロウロするありさま、矛盾をかかえながらも日ごろ実践しているささやかな工夫、ドイツやマダガスカルで出会った印象的な出来事などを綴ってみました」
</p>
<p>
　そんな素直な語り口で始まるこの本を紐解けば、ドイツにおける「環境にやさしい生活習慣をささえるシステムづくり」の素晴らしさがよく分かる。ごみ問題や自然エネルギー普及だけでなく、自動車交通の制限とそれに代わる自転車の活用についても大胆な取り組みが行われている。
</p>
<p>
<span style="color: #0000ff"><strong>＜ドイツでも日本でも車離れが加速＞</strong></span>
</p>
<p>
　ドイツでは車の台数を少しでも減らすために、カーシェアリングやカー・プーリング（相乗りシステム）などが奨励されている。代わりに自転車活用が国家的プロジェクトにより推進されているのだ。
</p>
<p>
　「国家自転車計画」により自転車のためのインフラ整備、自転車奨励キャンペーン、安全指導などが国家レベルで行われている。登録すれば自由に自転車を乗り捨てできるコール・ア・バイクと呼ばれるシステムもある。著者の住むフライブルグやミュンスターなどで最も先進的に取り組まれているが、まだまだ地域差はあるようだ。とは言え、この流れはますます強まっていくだろう。
</p>
<p>
　翻って日本でも、若者を中心に車離れが進んでいる。長らく日本では、普通免許をとりマイカーを持つことが当たり前とされ、車は社会的ステータスの象徴ともされてきた。私も車を運転することで社会性が獲得できると信じていた時期もある。
</p>
<p>
　しかし今やユーザーの価値観は大きく変化しつつあり、「車は持つものではなく必要なときに借りるもの」と考えてマイカーを手放し、カーシェアリングに登録する人、レンタカーを利用する人が増えている。車が「生活の足」となっている地方でも、車離れはすすんでいる。
</p>
<p>
　私もこの春のガソリン値上げに辟易とし、マウンテンバイクを友人から譲ってもらったのをきっかけに自転車通勤を始めた。洞爺湖サミットに合わせて行われた自転車ツーリングに岩手から青森にかけて参加し、自転車で知らない土地を旅することの楽しさを知った。
</p>
<p>
　こうした車離れは、自動車メーカーにとっては頭の痛い事態だろうが、持続可能な社会を目指す環境派にとっては大歓迎すべきことだ。さらに喜ぶべきことに、車離れと反比例するようにここ数年の間に自転車を購入する人はぐっと増えて、日本の人口一人当たりの自転車保有台数は、オランダ、ドイツに次いで世界第３位になったのである。
</p>
<p>
<span style="color: #0000ff"><strong>＜人生を楽しみながら環境を考える＞</strong></span>
</p>
<p>
　この傾向は今後ますます加速するだろうが、大きな問題が横たわっている。日本では自転車が安心して走れる専用道路が少なく、増加する自転車に対応する政策が追いついていない。道交法では自転車は車道左側を走るのが原則だが、実際に狭い道路で車と併走するのはとても怖い。かといって歩道を走れば、歩行者と接触する危険性が高くなる。
</p>
<p>
　自転車と歩行者の衝突事故は06年に２７６７件。この10年で４・８倍に増えた。ＯＥＣＤの調べでは、04年ドイツ、フランス、イギリス、オランダの自転車利用中の交通事故死者数は91年より37％～51％減った。しかし日本は10％も増えたのである。このままでは、自転車が新しい「走る凶器」になってしまう。
</p>
<p>
　ドイツでは都市のなか、あるいは都市と都市を結ぶ自転車専用道路がどんどん造られている。著者は、「自動車はある程度以上の年齢、お金、能力がなければ利用できない方法、つまりは一部の人間だけが享受できる移動方法で、しかも環境や人間に多大な迷惑をかける。民主的な社会では、誰もが最低限にもつ移動方法が最優先されなければならない」と述べている。「やはりドイツと日本は根本的に違うな」と感じざるを得ない。
</p>
<p>
　もちろん、日本でも新しい取り組みにチャレンジしている都市がある。「自転車政策はまちづくりを変える契機になる」と、自転車道ネットワークをつくる「基本計画」を策定した名古屋市。市の中心部に自転車道を整備し、駅前レンタサイクルをはじめた盛岡市。地域に見合ったやり方で、新しいシステム作りが始まっている。
</p>
<p>
　こうした意欲的な政策と日本の伝統文化を結びつければ、日本の良さを活かした持続可能な社会をつくることができるはずだ。ドイツの環境政策やシステム論を紹介してきた今泉さん自身、実は日々の暮らしの中でヒントにするのは子ども時代に日本で経験した生活だそうだ。
</p>
<p>
　手作り石鹸、落ち葉堆肥、余熱調理、そして父親の口癖だった「もったいない」。こうした文化はドイツにはなかなか無いらしく、逆に外から見ることで日本の良さをあらためて実感したそうだ。日本の伝統文化の再発見は、きっと日本を変える力になるだろう。
</p>
<p>
　それに加えてこの本の面白い点は、著者自身が素直に日々の生活で感じるジレンマを吐露している点だ。合成洗剤を使うのは良くないが、かと言って石鹸の原料となる植物の栽培のために熱帯雨林を伐採するのはいかがなものか。日々ペットボトルを買わずに省エネ家電を使い、車を使わないで生活しても、たった１回飛行機に乗れば帳消しになってしまう。
</p>
<p>
　だからこそ、オール・オア・ナッシングで思考するのは間違いなのだ。すぐれたシステムの設計は必要だが、上からの答えを求めるのではなく、私たちの日々の小さな実践がどんなふうに影響していくのかあれこれ思いをめぐらせながら試行錯誤する。
</p>
<p>
　人生を楽しみながら、しっかり環境問題も考える上で、とても参考になる一冊だ。
</p>
<p>
　（江東拓実）
</p>
<p>
<a href="/2008/12/27062820.html">（１２８３号　２００９年１月１０日発行）</a>
</p>
<p>
<img src="/old_files/mt/mt-static/FileUpload/pics/2009review/no-car.JPG" alt="『クルマのない生活』（今泉みね子著　白水社）" title="『クルマのない生活』（今泉みね子著　白水社）" width="350" height="501" /></p>
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	</item>
		<item>
		<title>書評『証言　水俣病』（栗原彬・編　岩波書店） 患者が語り継ぐ切実な苦しみ</title>
		<link>http://actio.gr.jp/2009/03/10120303.html</link>
		<comments>http://actio.gr.jp/2009/03/10120303.html#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 10 Mar 2009 03:03:03 +0000</pubDate>
		<dc:creator>taketake</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[書籍レビュー]]></category>

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		<description><![CDATA[人生と家族、コミュニティが壊された


　今年12月に開催される「水俣・千葉展」。先日それに向けた集まりに参加し、主催者から話を聞き衝撃を受けました。私は水俣病について一応知識を持っていたつもりでしたが、現在でもなお認 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>
<span style="color: #008000"><strong>人生と家族、コミュニティが壊された</strong></span>
</p>
<p>
　今年12月に開催される「水俣・千葉展」。先日それに向けた集まりに参加し、主催者から話を聞き衝撃を受けました。私は水俣病について一応知識を持っていたつもりでしたが、現在でもなお認定申請する患者さんが後を絶たず、公害発生後に生まれた30代、40代の人が発病していることを初めて知りました。
</p>
<p>
<span style="color: #0000ff"><strong>＜水俣病は終わらない＞</strong></span>
</p>
<p>
　水俣病発生が公式確認されたのは１９５６年。チッソから有機水銀を含む排水が水俣湾にたれ流され、魚介類を食べた人々が水銀中毒となりました。しかし国が水俣病を公害病と認定したのは１９６８年。発見されてから12年も経っていました。その後、患者は訴訟を起こしますが決着までに長い年月を要し、１９９６年に政府の解決案を受けて未認定患者とチッソとの間で和解協定が結ばれました。
</p>
<p>
　公害発生から半世紀、今も患者さんの苦しみは続いていますが、和解以後は急速に事件の風化が進んでいるとの指摘もあります。そんななか展覧会の主催者である水俣フォーラムは全国各地で展覧会を開催しています。『証言　水俣病』もその一つ、１９９６年に東京で開催された「水俣・東京展」での10名の患者の講演を採録したものです。
</p>
<p>
　水俣病によって身体だけでなく人生や家族、そして地域コミュニティや環境が破壊された様子が詳細に綴られています。同時に彼らの語る言葉に「公害病」では片づけられない生の重みと「豊穣さ」を発見するのです。
</p>
<p>
　下田綾子さんの家では、１９５６年に妹の静子さんと実子さんが発病。静子さんは亡くなりましたが、綾子さんは現在も食事や風呂など実子さんの面倒をみ続けています。
</p>
<p>
　荒木俊二さんは天草郡の島、御所浦に住む腕の良い漁師でした。魚が主食で、芋や米がおかずというくらい魚のとれた島でした。しかし魚が売れなくなっては生きていけないと、役場が率先して「御所浦には水俣病患者はいない」と宣言し申請を止めてしまいました。
</p>
<p>
　佐々木清登さんは芦北町の女島で漁師をしていましたが、魚がとれなくなって八幡へ転居してからは水俣病のことを口に出さずに暮らしていました。お父さんが亡くなり女島へ帰ってみると、認定された人と未認定の人が相互に疑心暗鬼になって、町の雰囲気が全く変わっていた。これではいけないと未認定の患者の運動に関わり始めたといいます。
</p>
<p>
　杉本栄子さんは網元の娘でした。30、40軒あった網子（網元に雇用されている漁師）さんの家族はみんなが親戚同然でした。それが杉本さんの家族に「奇病（水俣病）」が出た途端に変わってしまった。辛い経験もあったが、現在は水俣病のことさえも「のさり」（土地の言葉で自分たちが求めなくても大漁したこと）だと思い、海と語らいながらイワシ網漁をしています。
</p>
<p>
<span style="color: #0000ff"><strong>＜切り捨てられた個々の生＞</strong></span>
</p>
<p>
　水俣病の歴史は、被害者救済を求めた長い裁判闘争の歴史でもありました。しかし本書は、病気の発生の公式確認や見舞金契約、水俣病裁判や補償の為の県債発行、国賠訴訟など「処理の制度」を追うのではなく、個々の人々の生き方に焦点を当てています。
</p>
<p>
　私には96年の「政治的和解」が悪いことだと言い切れませんが、そのことで切り捨てられる個人の生があると感じます。膨大な患者さんがいるにも関わらず、体験者の話を聞くことはありません。本書に収録された患者さんの言葉に触れると、問題を処理するシステムから「はみだすもの」の中にこそ、本質的で大切なものがあるように思えてくるのです。
</p>
<p>
　編者の栗原彬さんは、日本思想史研究者のヴィクター・コッシュマンが「水俣病患者」を英訳した時の驚きを書いています。その訳は Minamata disease sufferer 。「患者」という言葉に「受苦者」という意味の sufferer が当てられていたのです。水俣病が医学上の病気だけでなく、「もっと社会的、構造的に与えられた全体的な苦しみであり、患者はそれを引き受けてきた人びと」と捉えたのです。
</p>
<p>
　水俣病患者は社会的な差別や偏見を受け、補償はなかなか進みませんでした。それは病気以上に辛いことだったでしょう。水俣病の苦しみが「社会的」なものだとすれば、その「処理」もまた「和解」という社会的な仕組みの中でなされるものかもしれません。
</p>
<p>
　確かに「政治的和解」以降、水俣病をめぐる多くの裁判が取り下げられました。しかし救われないものもあります。だからこそ１人の人間としての「個」に帰り、発話していくプロセスがはじまっているようです。私たちにできるのは、そのような１人１人の人間に対して、同じように一個人として向き合うことではないでしょうか。そんな読後感を持ちました。
</p>
<p>
&nbsp;（あらいじゅんこ）
</p>
<p>
<a href="/2008/11/29062326.html">（１２８１号　２００８年１２月１０日発行）</a>
</p>
<p>
<img src="/old_files/mt/mt-static/FileUpload/pics/2009review/minamata.JPG" alt="『証言　水俣病』（栗原彬・編　岩波書店）" title="『証言　水俣病』（栗原彬・編　岩波書店）" width="200" height="330" /></p>
]]></content:encoded>
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	</item>
		<item>
		<title>書評『空の帝国 アメリカの20世紀』（生井英考著　講談社）　軍産複合体に支配された世界最強の軍隊</title>
		<link>http://actio.gr.jp/2009/03/06065032.html</link>
		<comments>http://actio.gr.jp/2009/03/06065032.html#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 05 Mar 2009 21:50:32 +0000</pubDate>
		<dc:creator>taketake</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[書籍レビュー]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://actio.gr.jp/?p=637</guid>
		<description><![CDATA[その出発点には真珠湾のトラウマがあった


　私は神奈川県・相模原市南部に住んでいるが、日頃から米軍機の騒音に悩まされている。まさにアメリカに空を支配された、不愉快極まる日常だ。


　そんな私だから当然にも、書店の歴 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>
<span style="color: #008000"><strong>その出発点には真珠湾のトラウマがあった</strong></span>
</p>
<p>
　私は神奈川県・相模原市南部に住んでいるが、日頃から米軍機の騒音に悩まされている。まさにアメリカに空を支配された、不愉快極まる日常だ。
</p>
<p>
　そんな私だから当然にも、書店の歴史コーナーに平積みされたこの本の題名を最初に見たとき、まずはイヤな気分になった。アメリカ賛美の本だと思い込み、手に取って開いてみることもなかった。しかしその後もあちこちの本屋さんでこの本を目にし、ちょっとだけページをめくってみた。どうやら９・11テロ後に強行したアメリカの戦争には批判的な内容らしい。
</p>
<p>
　著者の生井英考氏の専門は「視覚文化論」。時代ごとにアメリカの雑誌グラビアや徴兵ポスターのデザインを紹介しながら、「飛行機」｢軍隊｣「戦争」に対するアメリカ人の感覚の変化を追いかけていく内容だ。
</p>
<p>
<span style="color: #0000ff"><strong>＜巨大な常備軍を否定した建国の理念だが＞</strong></span>
</p>
<p>
　20世紀初頭、アメリカ人のライト兄弟は飛行機を発明した。以降、アメリカが世界最大の空爆能力を持つ軍事超大国になるまでの歴史を著者は解き明かそうとしている。
</p>
<p>
　アメリカの航空機開発は、庶民が「飛行の夢」を追求するなかで自主的に始めたもので、当初は国家的な軍事利用には積極的ではなかった。そもそも「大きな政府」に懐疑的なアメリカ人は、平時から巨大な国軍を常備すること自体に否定的で、実際に第一次世界大戦勃発時の米軍の兵力はロシアの30分の１、日本の４分の1にすぎない20万人（州兵を含む）だった。
</p>
<p>
　そんなアメリカだが、海軍については早い時期から整備が進み、19世紀末までには「制海権」の概念も独自に確立していた。東西を広大な海洋にはさまれた米国の地理的条件に加えて、通商路の確保など財界からの要請が背景にあったらしい。
</p>
<p>
　海外に出て行くための軍事力には一定の関心を持ちつつも、本土防衛のための大規模兵力の必要を感じたことがなかったアメリカ。それを決定的に変えてしまったのは、日本による真珠湾攻撃だった。領土が外からの爆撃にさらされた衝撃により、それまで第二次大戦への参戦に消極的だった国内世論は一転、「やるべきかどうか迷う余地のない、有無を言わさぬ」ものとなった。
</p>
<p>
<img src="/old_files/mt/mt-static/FileUpload/pics/2009review/USS_West_Virginia.JPG" alt="日本軍の真珠湾攻撃で炎上する米戦艦ウエスト・バージニア" title="日本軍の真珠湾攻撃で炎上する米戦艦ウエスト・バージニア" width="350" height="273" />
</p>
<p>
　それでも米軍は、ヨーロッパ戦線でイギリス軍が行っていた火炎放射器の多用や無差別爆撃には、開戦後もしばらく抵抗感を抱いていた。しかしサイパンや硫黄島などで日本軍の「玉砕」覚悟の戦闘に何度も直面し、さらに戦争がいつ終るとも知れない長期戦の様相を呈していくに従い、米軍の戦い方も変化していく。無用の犠牲を出さない効率的な勝利を目指す余力を失い、ありったけの破壊力を無制限に投じる無差別攻撃に手を染めるようになっていくのだ。
</p>
<p>
　このプロセスで、第二次大戦中は陸軍の下部組織にすぎなかった航空軍（後の空軍）の役割が増大していく。航空部隊は、もともと偵察や運輸などの補足的な任務を負わされるにすぎなかった。しかし、陸海軍いずれからも自立した独自の役割をアピールしようとする「組織の論理」にも押される形で、日本への空襲を執拗に継続しようとする。　１９４５年２月、イギリスに誘い込まれる形でドイツのドレスデンへの夜間爆撃を行った直後からは、日本への空爆でも民間の犠牲を全くいとわない意図的な無差別攻撃を繰り返すようになる。最後には、他の多くの米軍人が「自分たちのこれまでの戦い方で日本に勝利できる」と支持しなかった原爆の投下までも行うに至る。
</p>
<p>
　そして戦後は、戦時下に肥大化した軍需産業の利害とも結びついて、陸海空の各軍が各々ミサイル開発などによる「空の軍事化」を推進。「制海権」の考え方を空の領域に応用した「制空権」の概念も確立され、アメリカの国策は「軍産複合体」に動かされるようになっていく。
</p>
<p>
<span style="color: #0000ff"><strong>＜９・11テロで呼び醒まされたトラウマ＞</strong></span>
</p>
<p>
　この本を読めば、第二次世界大戦以降のアメリカの国策が、軍の組織間対立や産業界の利権追求によって大きく左右されてきたことが良く分かる。｢日本は戦略性がないが、アメリカは国益のための長期戦略に基づいて行動している｣などと考えるのは全くの幻想だと改めて感じた。
</p>
<p>
　同時に、今日のような「帝国としてのアメリカ」へ変貌した原因の一つは、日本との戦争だったのではないか、とも感じた。アメリカは今でも、真珠湾攻撃へのトラウマから抜け出せていないのかもしれない。
</p>
<p>
　２００１年に起きた９・11テロ。アメリカはこれを「第二の真珠湾攻撃」「カミカゼ攻撃の再来」と呼び、そのアナロジーに引きずられてアメリカの圧倒的多数の国民は対テロ戦争を支持した。ベトナム戦争に反対した文化人すら、アフガン攻撃を支持したくらいだ。それほどまでにアメリカ人のトラウマとして深く刻み込まれている真珠湾攻撃。
</p>
<p>
　河野仁著『〈玉砕〉の軍隊、〈生還〉の軍隊』（講談社選書メチエ）を読めば、平均的アメリカ人はもともと、中央政府指揮下の常備軍の存在に非常に懐疑的だったことが分かる。その懐疑心を吹っ飛ばしてしまった決定的な契機の一つは、日本による先制攻撃だったことは確かだろう。
</p>
<p>
　著者は次のように結んでいる。
</p>
<p>
　「20世紀はアメリカの世紀だった、といわれる。また20世紀は戦争の世紀だった、ともいわれる。したがって20世紀は結局、アメリカの戦争の世紀だった、ということにもなる。しかし&hellip;（中略）&hellip;それ以外の歴史的な選択の可能性は、なぜ実現され得なかったのだろうか」
</p>
<p>
　「当のアメリカ社会と並んでその答えを出すべき務めをになう社会がほかにあるとするなら、それは太平洋の対極にあって唯一無二、歴史的体験をシンメトリカルなかたちで共有する日本以外にないことにもなるだろう。それは結局、アジアを爆撃したこととアメリカに爆撃されたことの歴史的な経験と因果律を、想像的に感得しながら自らに問い直すことでもあるからだ」
</p>
<p>
　今や自ら制御しきれないほど巨大な軍産複合体を抱え込んでしまったアメリカ。その現実に対して、「そうなるべくしてなった」と諦めてしまっては、現実的な問題解決の糸口はいつまでたっても見えてこない。それは「日本が作ってしまったアメリカ」でもあるのだ。だからこそ今後どうアメリカと向き合っていくのかを、私たちは自分自身の問題として考えなければならないと思う。
</p>
<p>
　（野本陽吾）
</p>
<p>
<a href="/2008/11/14064455.html">（１２８０号　２００８年１１月２５日発行）</a>
</p>
<p>
<img src="/old_files/mt/mt-static/FileUpload/pics/2009review/skyempire.JPG" alt="『空の帝国 アメリカの20世紀』（生井英考著　講談社）" title="『空の帝国 アメリカの20世紀』（生井英考著　講談社）" width="350" height="350" /></p>
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	</item>
		<item>
		<title>書評『成長の限界　人類の選択』（ドネラ・H・メドウズ他　著　ダイヤモンド社）　地球の「限界」を超えてしまった人類　行き過ぎを止めるには何をすべきか？</title>
		<link>http://actio.gr.jp/2009/02/10145005.html</link>
		<comments>http://actio.gr.jp/2009/02/10145005.html#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 10 Feb 2009 05:50:05 +0000</pubDate>
		<dc:creator>taketake</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[書籍レビュー]]></category>

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		<description><![CDATA[　１９７２年に執筆された『成長の限界』は、有限な地球環境のなかでの経済成長には必ず限界が訪れることをコンピュータ・シミュレーションにより明らかにし、全世界に大きな衝撃を与えた。恥ずかしながら私は、それから30年以上経っ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>
　１９７２年に執筆された『成長の限界』は、有限な地球環境のなかでの経済成長には必ず限界が訪れることをコンピュータ・シミュレーションにより明らかにし、全世界に大きな衝撃を与えた。恥ずかしながら私は、それから30年以上経った90年代になって初めて読んだ。
</p>
<p>
　今回手にした『成長の限界、人類の選択』（ダイヤモンド社）は、『成長の限界』を執筆したドネラ・Ｈ・メドウズのシリーズ３作目で、２００５年３月に出版された。
</p>
<p>
<span style="color: #0000ff"><strong>＜このままではカタストロフィを避けられない＞</strong></span>
</p>
<p>
　本書の序文では、「（72年の）『成長の限界』の論調は基本的に楽観的なものであり、『早く行動すれば、&hellip;ダメージをこれだけ減らせる』ということが繰り返し述べられている」と記されている。問題は、人類は「早く行動」できたのかにある。
</p>
<p>
　残念ながら30年たった今、「技術や制度の進歩にもかかわらず、人類のエコロジカル・フットプリントはいまなお増大を続けている。&hellip;人類はすでに持続可能でない領域にいる」。本書は人類の未来にあらためて警鐘を鳴らし、なんとか持続可能な未来を展望するために執筆されたのだ。
</p>
<p>
　メドウズは、72年時点では成長の限界に到達するまでいくらか余地があると考えていた。しかし92年の第２作目『限界を超えて』では、人類はすでに地球の限界を超えてしまったと認識。今から振り返れば、その認識すら「楽観的なものだった」と振り返っている。
</p>
<p>
　それにも関わらず、現在の厳しい状況はまだ多くの人々には認識されていない。地球上の人間活動を持続可能な領域に引き戻すには長い時間がかかり、決して楽観できないと警告している。
</p>
<p>
　30年前に比べたら、環境問題は一般的なコンセンサスを得ているし、環境教育も実施されている。企業や事業者の環境保護への取組もある。しかし、72年の『成長の限界』の分析で利用されたマクロ世界シミュレーション〈ワールド３シナリオ〉は未だに基本的な変化を迫られていない。なぜか？
</p>
<p>
　ワールド３シナリオについてメドウズは、「崩壊の可能性に関するわれわれの最も重要なメッセージは」「三つの特徴が生み出す地球システムのダイナミックな行動パターンを理解することから出てきた」と説明する。
</p>
<p>
　その「三つの特徴」とは、「衰退する可能性のある限界、止むことのない成長の追求、近づく限界に対する社会の反応の遅れ」のことだ。この三つの特徴のどれかが大きく変わらなければ、「シナリオどおりの道筋をたどっているとしても、驚くに値しない」と著者は記している。
</p>
<p>
<span style="color: #0000ff"><strong>＜持続可能性革命により「定常状態」の社会へ＞</strong></span>
</p>
<p>
　今回の３作目では、既に限界を超えてしまった人類の行き過ぎをなんとか止めるために、「この数十年間に出てきたあらゆるデータや事例をもとに、より理解しやすい形で、われわれが１９７２年に出した主張を再度強調すること」が目指されている。
</p>
<p>
　第1章「地球を破滅に導く人類の『行き過ぎ』」の冒頭では、「『行き過ぎ』とは、意図してではなく、うっかりと限界を超えてしまうことだ」と指摘。そして実際に人類は、「うっかりと限界を超えて」しまった。
</p>
<p>
　世界自然基金（ＷＷＦ）のデータによれば、人類は「１９８０年代後半から、毎年、その年に地球が再生できる以上の資源を使うようになった」。「だだし、行き過ぎの結果、必ずしも破局がやってくるとは限らない」。「意識的に方向転換し、過ちを修正し、注意深くスピードを落とす」ならば、破局を回避する、ないしは小規模にすることができる。
</p>
<p>
　しかしそのためには、人々の意識が変わらなければならない。第２章では、行き過ぎの原因「成長、加速、急激な変化」について、「人々は、成長志向の政策を支持する。成長すれば、より幸せになれると思っているから」と指摘。物質的生産や人口などの幾何級数的成長は、まだ大丈夫という状態からある日突然、行き過ぎになってしまう。どうにもならない破局の前に、成長を是とする思考を改めるべきだと提起している。
</p>
<p>
　第３章では供給源と吸収源の危機が明らかにされるが、一方で「人口を減らし、消費行動を変え、資源効率の高い技術を用いることで、エコロジカル・フットプリントは減らす事が出来ると」と訴える。「エコロジカル・フットプリント」とは「自然に対する人間の影響の総量」を表す概念だ。
</p>
<p>
　特に第７章は興味深い。ここでは「持続可能なシステムへ」どのように移行できるかを展開。根本的なシステム構造の転換が必要であるとして、「人間の歴史には、これまでも構造的な変革が何度か起こったが、最も興味深い例は、農業革命と産業革命だろう」と語った上で、次は「『持続可能性革命』が必要とされている」と結論づける。
</p>
<p>
　ここでは、「地球の限界と折り合いをつける経済という考え方を真剣に取り上げた最初の経済学者」としてジョン・スチュワート・ミルを挙げ、彼の提起した「定常状態」を評価する。ミルは、「先へ先へと進もうと苦闘するのが人間の状態であり、お互いを踏みにじり、ぶつかり合い、押し退け、足を踏みつけあうことが人類の最も望ましい天性であると考えている人たちの提唱する生活の理想というものに、魅力を感じていない」「定常状態が、人類の向上の停止を意味するものではない」と１５０年前に主張していたのだ。
</p>
<p>
　実はメドウズは既に２００１年２月、脳膜炎でこの世を去っている。彼女は最後のエッセイのなかで、北極のシロクマを気にかけていた。「もし地球全体の気温が1度上昇すれば、北極で約３度の上昇になる。これこそまさに今起こっていることなのだ。&hellip;何人かの生物学者は、シロクマは確実に滅びると言う」（『「成長の限界」からカブ・ヒル村へ』生活書院）。
</p>
<p>
　人生をかけて「成長の限界」を訴え続けた彼女は、深い悲しみを抱えながら、それでも未来の可能性を探り続けた。訳者の枝廣淳子氏は「まえがき」でこのメドウズの遺作を、「環境問題を、あなた自身の問題として考える、その背中を押してくれる本なのです」と紹介している。
</p>
<p>
　人類は、そして私たちは今「何をすべきか」。未来は決まっているのではなく、いまだ多くの選択肢は残されている。それにより私たちの未来は決まる。そんな重大な岐路に立たされた人類に、多くの示唆を与えてくれる本だ。<br />
　<br />
　（小川愛子）
</p>
<p>
<a href="/2008/10/31064716.html">（１２７９号　２００８年１１月１０日発行）</a>
</p>
<p>
<img src="/old_files/mt/mt-static/FileUpload/pics/2009review/seichonogenkai-jinruinosentaku.JPG" alt="『成長の限界　人類の選択』（ドネラ・H・メドウズ他　著　ダイヤモンド社）" title="『成長の限界　人類の選択』（ドネラ・H・メドウズ他　著　ダイヤモンド社）" width="250" height="350" />
</p>
<p>
&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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	</item>
		<item>
		<title>書評　『私の履歴書 人生越境ゲーム』（青木昌彦　日本経済新聞出版社）</title>
		<link>http://actio.gr.jp/2009/01/26125357.html</link>
		<comments>http://actio.gr.jp/2009/01/26125357.html#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 26 Jan 2009 03:53:57 +0000</pubDate>
		<dc:creator>taketake</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[書籍レビュー]]></category>

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		<description><![CDATA[越境ゲームの多元的ダイナミズム
自分史と時代史の融和世界へのいざない


　自伝的なものを残すタイプとそうでないタイプがいるそうだ。自分史を時代史とその変遷のなかに主体的に位置づけ「著作（自伝）」として残すことは、たし [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>
<span style="color: #008000"><strong>越境ゲームの多元的ダイナミズム<br />
自分史と時代史の融和世界へのいざない</strong></span>
</p>
<p>
　自伝的なものを残すタイプとそうでないタイプがいるそうだ。自分史を時代史とその変遷のなかに主体的に位置づけ「著作（自伝）」として残すことは、たしかに勇気がいる営為とはいえ、読者に何らかの強いインパクトを与えるのではないか。理論経済学（制度理論研究）の分野で、世界の学界をリードし続ける青木昌彦氏による文字通りの履歴書が本書であり、「知的」魅力に満ちた作品（＝ストーリー）である。
</p>
<p>
　本書のタイトルは、著者の人生観を率直に宣言する、的を射た名称といえよう。「ゲーム」には〈獲物〉という意味も存在するが、その表題には、飽くなき好奇心としての〈獲物〉を探求する著者の不屈の挑戦精神なるものが暗黙裡に含意されてはいないか。「学問的」越境は「精神的」越境という葛藤や苦悩を伴いながら、自我＝アイデンティティーを生成してゆく。「戦う」舞台を絶えず拡充してきた軌跡は決して平坦でも直線的でもなかったが、だからこそ稀にみる豊かな人生ドラマが生まれたのだ。
</p>
<p>
　通常の人が思い描く「履歴書」以上の内容が本書には赤裸々に詳述されており、それゆえに、著者が積極的に牽引する専門分野に必ずしも通暁しておらずとも、何かに突き動かされるような内的衝動を禁じえない。「1つの越境ゲームは他のそれと絡み合い、全体として切れ目のない連鎖をなしているようだ」（２５０頁）という見解は、著者の「越境ゲーム」はこれからも続くことを示唆し、われわれを更に興奮させる。そう、本書には人をワクワクさせる高揚感・緊張感が濃密な形で凝縮されているのである。「知的」ベンチャーと称される７つの試みが本書全体を通じて語られているが、最初のベンチャーと位置づけられるブントとそれをめぐる活動家（姫岡玲治）としての一連の記述は興味深い。「あとがき」にあるように、学生時代の活動については公には完全に沈黙を守ってきたという事情もあるが、すべてはここから始まったといえるからだ。
</p>
<p>
　ブントに関しては今なお賛否両論あるのは事実である。明確な信念・目的意識に依拠した活動＝安保闘争であったとはいえ、それを果たして「知的」ベンチャーと銘打っていいものかどうか。ブント活動家としての側面に固執して本書を眺める読者は、もしかしたらそれを「血的」ベンチャーと揶揄するかもしれない。「ベンチャー精神＋軽はずみ」という主観的な自己性格分析を鑑みれば、半世紀も前の活動は、ある意味で「若気の至り」に過ぎないのか。国家のあり方をめぐる政治ルールの様相を変化させるべく触媒効果としての役割を担ったと述懐する氏のブント観は、敗北感でなく爽快感ともいえる不可思議な心情を吐露するものだ。「あの時代の自分は歴史の奔流に押し流される、木の葉とまではいわないまでも流木のような存在だった」（２３２頁）という回想もなかなか意味深である。とはいえ、ベンチャー組織それ自体は、諸個人の自発性・自主性を尊重しその仲介機関でなければならないという思想は、著者の鮮明な組織哲学を反映し、それは以降のベンチャーに柔軟に活かされてゆくことに注視しておきたい。
</p>
<p>
　更に留意すべきは、付録１『安保斗争』（１９５９年７月）にある、「資本家達は、自分の利益のために、資本家階級の支配の維持のためには、『民族』の利益をふみにじることをいとわない。が同様に、時と場合によっては、『民族の威信、民族の独立』を同じ階級支配の強化に利用することも躊躇しないのだ」（29頁）という文章が明示しているように、著者は物事の本質を鋭く炙り出す眼力を有しているということである。そうした慧眼ともいうべき眼力は、日本型経済システムの特殊性という既成認識のなかに、欧米に支配的な新古典派経済理論では十分に捉えきれない普遍的要素が内在しているのではないかという、学問上の斬新かつ逆説的な分析課題の発見とも見事に呼応する。あらゆる困難という大木を切り倒す強靭な「斧」である氏の抽象力・想像力（＝創造力）は、「知的」ベンチャーに真正面から挑むための原動力といえるだろう。
</p>
<p>
　スタンフォード大学において比較制度分析（通称ＣＩＡ）の博士号取得のフィールドを立ち上げたことは有名だが（第４の「知的」ベンチャー）、制度の多様性を普遍的言語とされるゲーム理論を援用して解き明かすというアプローチに辿り着いた経緯、そうした手法がどのような潜在的な可能性を秘めているのか平易に解説されている。アローやハーヴィッツ、宇沢弘文そしてコルナイといった、世界を代表する経済学者との学問的交流を含む数々の特異な言説・公共空間の存在も、自らの思考様式を醸成・確立させてゆく比類なき貴重な客観的要因であったに違いない。今は亡き師のハーヴィッツによる「誘因両立的な経済メカニズムの設計」をめぐる主題を推進させる著者の取り組みは、特権的官僚国家に変質したソ連型集権的システムに対する批判を主要論点の1つとした、かつての「姫岡理論」と連動していないか。こうしてわれわれは、「13 近代経済学へ」にある、「社会の組織にかかわる最も基本的な問題意識と明晰な論理の結合、これこそ非論理的な党派的政治論争に倦いていた私の必要としていたものだった」（98頁）という、ブント運動後に到達しえた氏の根源的な学問観へと辿り着く。
</p>
<p>
　著者が開拓した研究アプローチは、「越境」的であると同時に、経済学・政治学・社会学や法学、さらには認知科学といった社会科学諸分野を「架橋」するダイナミックな知的営為に他ならない。巻末の加藤創太氏との対談（付録４「社会科学は統合されていく」）も示唆に富む刺激的な内容だ。複数の「競合的」学派が共存することが歴史的にみて常態であるとすれば、多様な経済思想が収斂・単一化することはないであろうし、私自身、望ましいと考えていないが、人間社会を基層的に支える市場や貨幣、伝統・規範、ルールといった、古くて新しい考察対象へのいわば制度主義的アプローチの能力を最大限に発揮しうる方法論の再構築が鍵となることは確かだ。７つ目の「知的」ベンチャー「仮想制度研究所」（通称ＶＣＡＳＩ）の設立とその普及は、異分野の専門研究者の議論を活性化させるとともに、超学際的なサイバー・コミュニティ空間としての機能的特質を秘めるものとして今後の動向に注目したいプロジェクトである。
</p>
<p>
　幾つかの複合的要因が重なり、著者は抽象的な数理経済学研究に従事することにある種の「迷い」が生じた時期があったそうだ（「20 経済学に迷い」）。社会科学統合問題の解決に向けて企図された比較制度分析は、社会科学としての経済学のあり方を深部から問い直すものである以上、とくに理論的・哲学的背景について、これからも学ぶ価値は大いにある。冷戦崩壊後、従来の「資本主義対社会主義」、「市場対計画」という二分法的な対立構図が瓦解し、比較「体制」から比較「制度」研究へとフィールドの比重がシフトしたことも、むろん念頭に置かれるべきだ。『コルナイ・ヤーノシュ自伝』の書評において綴られた記述と同様に、本書もまた、既存の学問体系との真摯な格闘を通じて独自のヴィジョンと概念的枠組みを彫琢してゆく、「創造的破壊」ともいうべきスリリングな私的学説史としての側面を有している。大胆かつ劇的な知的遍歴の醍醐味だ。
</p>
<p>
　専門分野以外の著者の興味関心（歴史・文学・音楽・映像文化）は実に多彩で造詣も深い。「家族愛」も十分に伝わってくる。ユニークなエピソードも満載。総じて本書は秀逸な「時代」書といってよい。「経済理論の制度主義的転回」（ベルナール・シャバンス）をめぐる青木昌彦氏の多元的な「越境」ゲームは今後も精力的に営まれてゆくだろう。そのための洞察はどこまで深まり、視野はどこまで広がってゆくのか、氏の尽きることない「未知」への挑戦精神に多くの人が熱い眼差しを差し向けるに違いない。
</p>
<p>
（塚本恭章・つかもとやすあき　１９７４年生　東京大学大学院経済学研究科修了、経済学博士）
</p>
<p>
<a href="/2008/12/12062623.html">（１２８２号　２００８年１２月２５日発行）</a>
</p>
<p>
<img src="/old_files/mt/mt-static/FileUpload/pics/2009review/rirekisyo.jpg" alt="『私の履歴書 人生越境ゲーム』（青木昌彦　日本経済新聞出版社）" title="『私の履歴書 人生越境ゲーム』（青木昌彦　日本経済新聞出版社）" width="170" height="239" /></p>
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